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【春秋戦国編】第7回 割拠する群雄 その2【合従連衡 戦国一の嫌われ者】

 戦国時代は熾烈な外交戦が繰り広げられた時代でもありました。特定の国が特に強大化した場合、他の国が連合してこれに対抗する外交戦略を合従がっしょう、強国と積極的に同盟を結ぶ外交戦略を連衡れんこうと言います。この時代に活躍した弁舌の達人たちを縦横家じゅうおうかと呼び、その筆頭は秦の宰相さいしょうにもなった張儀ちょうぎという人物です。

俺の舌はまだあるか?

 張儀は紀元前373年頃の国で生まれたと言われています。商鞅しょうおうより17歳ほど年下で、張儀が仕えたしん恵文王けいぶんおうより17歳上なので、ちょうどこの二人の真ん中ですね。
 張儀は若い頃鬼谷子きこくしという師匠のもとで政治や弁舌について学んだとされます。孫臏そんぴん龐涓ほうけんの師匠も鬼谷子と言われていますが、果たして同一人物なのか、そもそも鬼谷子が実在の人物なのかも不明なちょっと謎人物です。
 学問を身に着けた張儀は各地を巡って仕官先を探します。張儀がの宰相に招かれた時、和氏かしへきという国宝が盗まれるという事件が発生していました。張儀は就活中で金欠だったため疑われて暴行を受けてしまいました。
 半死半生でなんとか帰宅した張儀に彼の妻が言います。
「口先三寸で出世しようとするからこんな目に遭うんです。いい加減に普通に働いてください」
それにたいして張儀は舌をだして言います。
俺の舌はまだあるか?舌さえあれば十分だ

蜀を得て楚を望む

 就職活動が実り、張儀は秦の恵文王に士官することができました。当時の秦の仮想敵国は魏だったのですが、張儀は魏との戦争で功績を挙げます。それだけでなく敗北した魏がせいとの同盟しようとするとそれを事前に潰して、逆に魏と秦の間に同盟を締結させます。秦以外の国が連携することを徹底的に妨害するのは張儀の基本方針といえます。
 紀元前323年には魏を中心に魏・ちょうかんえんそして戦国七雄には含まれませんが七雄に匹敵する大国・中山ちゅうざんによって『五国相王ごこくそうおう』と呼ばれる同盟を結び秦に対抗しようとしました。これに対して張儀はこの五国相王と利害関係にあった斉と楚を説得します。秦に目が向いている今が侵略のチャンスと吹き込んだのです。そして五国相王vs斉・楚の構図を作り出して対立させた結果、五国相王は瓦解してしまいました。

 紀元前316年、魏との戦いに一応の目処が立ったため、張儀は次の目標を韓や周にするべしと恵文王に主張しました。文明の中心地を抑えて他国を威圧しようという戦略です。
 しかし、司馬錯しばさくという将軍が張儀に反対します。司馬錯は現在の四川省しせんしょうにあたるしょくへの出兵を主張します。これからおよそ500年以上後の三国時代に劉備りゅうび諸葛孔明しょかつこうめいが国を建てた地域です。
 恵文王は二人の意見を比較検討し、司馬錯の意見を採用しました。司馬錯は兵を率いて巴蜀を攻略し、領土の経営にも成功しました。彼は人気マンガ『キングダム』でも秦を代表する名将の一人として描かれていますが、行政の能力も高かったようです。この地域でトラブルが起きると司馬錯が赴いて解決するということもしばしばあったようです。

 巴蜀の支配によって秦は大きく飛躍することになります。まず、この地域は周囲が山に囲まれた天然の要塞でありながら、中央の四川盆地は長江の豊かな資源に恵まれ高い農業生産量を誇ります。食料の生産量は、人口と動員兵力に直結します。秦は戦争により多くの戦力を投入できるようになりました。楚以外の戦国七雄と隣接していない為、生産活動にリソースを裂くこともできました。
 そして、唯一隣接している楚も長江の下流にあるため、楚から巴蜀への攻撃は困難であるにも関わらず、巴蜀から楚への攻撃は容易になりました。戦略上有利をとった秦は楚を蹂躙していきます。

巴蜀の獲得により対楚戦略を有利に進めることができた

仁義なき丹陽たんよう藍田らんでんの戦い

 秦の巴蜀攻略は対して楚の首脳陣も危機感を募らせます。楚の懐王かいおうは斉と同盟を結びます。
 楚と斉の連携を断つために張儀は楚を訪れて懐王を説得します。
秦は楚との同盟を望んでいます。斉との同盟を破棄して秦と同盟を結んでもらえたら600里四方の土地を割譲しましょう
当時の1里はおよそ400メートルなので、ざっと240キロ四方の土地ということになります。領土に目が眩んだ楚の懐王は周囲の制止を振り切って、斉との同盟を一方的に破棄してしまいました。これで広大な領土が手に入ると思っていた懐王でしたが秦から割譲された領土はわずか6里四方の領土でした。やってることは完全に詐欺ですが、騙される方も騙される方です。
 紀元前312年、激怒した懐王は軍を率いて秦に攻め込みます。秦の恵文王も張儀も当然この動きは織り込み済みです。秦は恵文王の異母弟・樗里疾ちょりしつを起用して楚軍との対決に臨みます。
 樗里疾は『キングダム』にも登場しませんし、日本での知名度は低い人物ですが『史記』にも列伝がある超大物です。智嚢ちのうつまり知恵袋というあだ名を持つ秦随一の知恵者でした。他国の連合軍・合従軍がっしょうぐんを何度も撃破して、他の七雄から恐れられた名将でもあります。

 斉との同盟を一方的に破棄したため、国際上孤立してしまった楚は単独で樗里疾率いる秦軍との戦います。現在の河南省沂水県きすいけん丹陽たんようで発生した戦いは楚軍は兵士8万人が斬首され、70人以上の将校が捕虜となり領土を600里四方を奪われるという大敗北を喫します。
 激怒した懐王は更に国内の兵力を動員して秦との戦いを継続しますが、この後続部隊も陝西省せんせいしょう西安市せいあんし藍田らんでんで樗里疾の前に敗北します。
 張儀の謀略によって楚は国際的な信用、多くの兵士と将校、広大な領土を失い、これ以降秦に対しては一方的に蹂躙されていくようになります。

楚の懐王は張儀の口車に乗ってしまう

嫌われ者の処世術

 丹陽・藍田の戦いの後、秦と楚の争いは一時停戦となりました。なんと張儀は停戦の交渉のため自分から志願して楚に赴きます。当然楚では上から下まで張儀に対する恨みは相当なものでしたが、張儀は懐王の妃を説得することで無事秦に帰還します。
「もしも張儀に危害が及ぶことになれば、秦の恵文王はあらゆる手段で張儀を助けようとするでしょう。金銀財宝や多くの美女が懐王に献上されることでしょう。きっと懐王の愛情は秦の美女たちに奪われてしまうでしょう」
張儀は人を派遣して懐王の妃の嫉妬心を煽ったそうです。張儀が危ない橋を渡ったのは、秦国内での彼に対する嫉妬や反感を回避するためだったと思われます。

 紀元前311年秦の恵文王が亡くなり、息子の武王ぶおうが即位します。武王は諡のイメージ通り強さや筋肉が大好きな人で、策謀に長けた張儀とは反りが合いませんでした。さらに秦国内でも張儀のやり口に反感を持つ人も多かったようで、かなり嫌われていたようです。身の危険を感じた張儀は武王に策を献じます。
「私は秦の宰相を辞職して故郷の魏に仕えようと思います。斉は楚との同盟を潰した私を憎んでいますから魏を攻撃するでしょう。その隙を突けば労せず魏の領土を奪えるでしょう」
元々張儀が嫌いだった武王は厄介払いと領土獲得ができるこの策を採用します。そして張儀は秦を脱出した後、この策を魏と斉にバラしてしまいます。
 斉は秦の陰謀に引っかかるまいと魏への出兵を控えるようになりました。魏に行った張儀は斉には秦の策が筒抜けであるため、自分がいる限り斉から攻撃されないと主張してまんまと魏でポストを得ることに成功しました。
 紀元前309年に張儀は亡くなります。商鞅を筆頭に秦で頭角を現した人物は非業の死を遂げることが多いのですが、張儀の死は非常に穏やかなものでした。秦の武力を背景に舌先三寸で天下を引っ掻き回し、国の外はもちろん内からも嫌われた男は、その嫌われっぷりを利用することで悠々とした余生を送ることができたのです。