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第9回【牙を剥く虎狼の国】その1【蚕食鯨呑】帝業の始まり

 春秋戦国時代はしんの始皇帝の統一を以って終わりを迎えることは誰もが知るところです。しかし、天下統一事業は始皇帝一代で成し遂げたわけではありません。
 商鞅しょうおうを登用して強国の礎を築いた孝公こうこう張儀ちょうぎ司馬錯しばさくなど文武の人材を使いこなした、孝公の子・恵文王けいぶんおう。そして、恵文王の子供で始皇帝の曽祖父にあたる昭襄王しょうじょうおうの時代に秦一強の時代に突入します。

 偉大な征服王・昭襄王のもと獰猛かつ狡猾に他国を蹂躙する姿はこう呼ばれました。
虎狼ころうの国』と。

兄・武王ぶおうの死

 戦国史の最重要人物のひとりである秦の昭襄王ですが、彼は元々王位を継ぐ立場にはありませんでした。
 昭襄王は紀元前325年、ちょうでは英主・武霊王ぶれいおうが即位した年に秦の恵文王の子供として誕生しました。恵文王の後は異母兄である武王ぶおうが継ぎ、昭襄王はえんに人質として出されていました。
 紀元前307年に武王が他国の国宝でウエイトリフティングをしていた所、事故死するという前代未聞の珍事が発生しました。享年23歳。子供がいなかったため、後継者は武王の弟たちから選ばれることになりました。

 外国である燕にいた昭襄王は後継者レースに出遅れてしまいますが、趙の武霊王の助力と、昭襄王の母の弟・つまり叔父に当たる魏冄ぎぜんの活躍により、王位に就くことができました。18歳の若き王の誕生です。

 18歳では単独で政治を行うのは困難であるため、後見として生母である宣太后せんたいこうとその弟・魏冄が政治の実権を握ることになります。
 出身の魏冄は権力や財産に貪欲な人物ではありましたが、政治家としても軍人としても非常に優れた人物でもありました。昭襄王の即位直後、兄弟たちが王の座を狙って内乱を起こしましたが、魏冄はあっという間に反乱を鎮圧してしまいます。

衝撃的な武王の死

悪の帝王

 紀元前299年、昭襄王が即位後まもなくの話です。楚の懐王かいおうが会見のため秦にやってきます。懐王は張儀の口車に乗って領地の多くを失った人物です。今回は秦からの要請によるものです。
 楚の大臣である屈原くつげん昭雎しょうしょは何度も秦には苦しめられていることから、会見に行くことを止めましたが懐王は諫言を無視します。
 案の定、懐王の身柄は秦によって拘束されてしまいます。張儀にいいように弄ばれた事は忘れていたのでしょうか?
 秦は懐王の身柄と引き換えに領土の割譲を求めますが、楚はこれを拒否。懐王の息子が新たに楚王となります。

 祖国からの引き渡しを拒否された懐王はその後脱出を試みますがことごとく失敗。最終的に秦で不遇のまま病死します。
 自業自得な部分もありますが、この事件は楚の人々にとってはかなり屈辱的だったようで、100年以上後に発生した反乱で秦に抵抗した人物は懐王を名乗っています。

 紀元前300年、昭王7年に秦の知恵袋と呼ばれた宰相・樗里疾ちょりしつが亡くなります。昭襄王は斉の貴族である孟嘗君もうしょうくんを招いて樗里疾の後継者としました。
 しかし、斉でも身分が高い孟嘗君を危険視した昭襄王は、孟嘗君排除を試みます。結果、食客たちの機転で危機を脱出したのは鶏鳴狗盗けいめいくとうの逸話で語ったとおりです。
 斉に帰国した孟嘗君は紀元前296年、反連合軍・合従がっしょう軍を組織して秦軍を打ち破りました。

 この頃の秦はかなり悪辣で強引なやり方が目立ってきています。まさに虎狼の国。

二人の『帝』

 孟嘗君の後、趙出身の楼緩ろうかんという人物が宰相になりますが、趙側からの横槍が入り罷免され、魏冄が宰相となります。紀元前295年のことです。
 紀元前296年に秦は孟嘗君率いる反秦連合軍・合従がっしょう軍に敗れていました。紀元前293年、魏冄はこの敗戦の恨みを晴らすべく、合従軍に参加したかんに、ある将軍を派遣します。

 魏と韓は更にしゅうにも応援を要請し、連合軍の総兵力は25万人にも達しました。対して攻める秦軍は総兵力12万と約半数です。両軍は河南省かんんしょう洛陽市らくようし伊闕いけつで激突します。
 連合軍は魏軍と韓軍がお互い先を譲りあう形になってしまいます。秦軍はその連携不足を衝き魏軍に集中攻撃を加えます。不意の集中攻撃で魏軍は崩壊し韓軍も自壊。秦軍は潰走する連合軍を追撃した結果、24万人の首を獲り5つの城を陥落させるという大戦果を挙げました。
 秦軍の将軍の名前は白起はくき。春秋戦国時代に最も多くの戦功を挙げ、最も多くの人間を殺した男です。マンガ『キングダム』でも秦の六大将軍筆頭として別格の存在感を放っています。
 白起は翌年の紀元前292年に魏の城61を攻略します。
 紀元前290年には魏冉自らが魏に侵攻して60余りの城を攻略しました。どうしても白起が目立ちがちですが、軍事においては魏冉も卓越したものを持っていたことがよくわかります。

 紀元前288年、昭襄王は当時東方で全盛期を迎えていたせい湣王びんおうに使者を送りある提案をします。
「秦王は『西帝せいてい』、斉王は『東帝とうてい』を名乗り共に趙を攻めましょう」
資治通鑑しじつがんの記述では魏冉がこれを提案したようです。始皇帝が『皇帝』の称号を使う60年以上前の話です。
 このときは秦と斉の同盟を嫌うえんの介入によって東西の両帝が並び立った時期は短時間でしたが、かつては辺境の新興国だった秦が世界のトップランナーに立った象徴的な出来事でした。

六国蹂躙

 秦はこの時代優れた軍人を多く排出しています。白起、魏冉に加えて恵文王時代からの名将・司馬錯しばさく、斉出身の蒙武もうぶとその父・蒙傲もうごうなどです。
 彼らの指揮のもと、秦軍は虎狼の如く諸国を侵略していきます。

 司馬錯は以前もお話したとおり、巴蜀はしょくと呼ばれる現在の四川地域に精通していましたが、それ以外にも現在の陝西省せんせいしょうの西側に当たる隴西ろうぜい方面や、韓や魏との戦闘でも功績を上げました。日本での知名度は高くなく、独立した列伝もありませんが、占領地の経営手腕も含めて非常に優秀な人物だったことがわかります。
 個人的には武官でありながら、あの口から生まれてきた男・張儀に反対して恵文王を説得できた弁舌の才能が一番すごいんじゃないかと思います。

 蒙武は父・蒙傲もうごうと子・蒙恬もうてんと共に『キングダム』でもおなじみですね。
 蒙一族は昭襄王の時代に斉からやってきたようです。どちらかというと昭襄王死後に活躍していますが、紀元前285年に蒙武が斉軍を撃破したと史記の秦本紀にあるのが最初の戦果ですね。息子のほうが先に史記に登場しています。

 紀元前276年に秦と魏・趙の間で発生した華陽かようの戦いでは白起、魏冉、公孫胡傷こうそんこしょうを投入し、魏軍13万を斬首し趙軍2万を河に沈めるという大戦果をあげます。
 公孫胡傷は『キングダム』では胡傷として白起や司馬錯と並ぶ六大将軍の一角として描写されています。

 単独で秦に対抗できる勢力はなくなりつつありました。しかし、流れを変えたのは英雄たちの出現でした。
 『キングダム』でも趙の三大天と称される藺相如りんそうじょ廉頗れんぱ趙奢ちょうしゃの三人が出現したことで、趙は秦の対抗馬として一躍歴史の檜舞台に躍り出ることになります。