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綱渡り

大学3年生のすべての科目を修了しました。来月には4年生に進級できると思います。

6月の訪問看護実習にはじまり、精神、地域、小児、母性の各領域の実習を終え、成人と老人、統合実習を残すのみとなりました。就職活動は夏休みにインターンシップ2回と病院見学1回をこなし、この春休みにも合同就職説明会とインターンシップ2回を予定しています。自己分析と病院比較を進め、3月中には志望病院を絞り込んで書類作成に着手したいと思っています。

表面上はうまくいっているように見えます。でも、水面下では睡眠障害と希死念慮と思考制止が大暴れして、とんでもないことになっています(実習中も、ロッカールームや控え室で人目を盗んで頓服薬を飲み、ぎりぎりのところで踏みとどまっていました)。今、一寸先は闇です。

心身ともに健康な学生

なぜこんなに悲観的なのか。オンライン合説で、ある病院(都内の有名病院)の採用担当者から言われた言葉がずっと引っかかっているせいだと思います。その担当者は求める人材を問われると、「心身ともに健康な看護学生を求めています」と発言したんです。平手打ちをくらったかのような衝撃でした。それってつまり、持病のある学生はいらないという意思表明ですから。

あらためて考えてみると、かなり無理のある採用基準だなと思います。こんな基準を設けたら、後々自分の首を絞めることになりかねません。たとえば、あなたの病院に勤めている看護師がステージ1の乳がんと診断されたとします。その看護師が外来で化学療法を受けながら働きたいと言ったら、彼女の首を切るってことですよね? 心身ともに健康な人を求めるってそういうことでしょ?

大学のクラス顧問(担任の先生みたいなものです)にも、この件について相談してみました。心身ともに健康な学生がほしいって言われたんだけど、どうしたらいいんでしょうねと。そうしたら、一笑に付されました。最近、病院の職員と話をしたけれど、入職してくるのは健康な人ばかりではない。それでもうちで働いてもらえるのはありがたいと話す看護師もいると言われました。

わたしはクラス顧問の言葉を信じませんでした。そもそも、わたしの大学は大学院へのストレート進学を推奨していることもあって、就職活動へのサポートは信じられないほど手薄です。エントリーシートのチェックや面接の練習をしてもらいたければ、ハローワークやジョブカフェといった外部の就職支援機関に足を運ばなければいけません。そんなこともあって、学生の就活に無関心な教員の言動は信用できないと思っています。加えて、わたしは生来の悲観主義者だから、そんなふうに悠長に構えて将来を楽観することができません。常に最悪の事態を想定し、備える。それがこれまでのわたしの生き方でした(ちなみに、いまだかつて日本で最悪の事態に遭遇したことはありません。でも、海外ではほぼ確実に想定外の災難に巻き込まれたので、この考え方が的外れだとは思いません)。実習と卒業研究をクリアし、国家試験にも合格したけれど、どこからも内定がもらえず就職できない、というのが今わたしが最も恐れている事態です。

今日1日の区切りで生きる

次から次へと押し寄せる不安な予測の波(と実習記録の波)に対処していると、気力と体力を奪われます。この不確実で何の保証もない人生を、綱渡りするような気持ちで生き続けることに疲れ果てています。こんな感じに。

宙ぶらりんになっているわたし

宙ぶらりんほどきついものはありません。だって、苦しいだけでどこにもたどりつけないから。いつまでたっても視界不良で、不安と恐怖と最悪の予測を抱えたまま、とにかく先へ先へと進むしか道がないから。最後には、こんなに苦しい思いをするくらいだったら一刻も早く楽になりたい(=死にたい)と思い、希死念慮が自殺企図へと向かいます。

だけど、ここはひとつ自分を正当に評価してあげないといけない気がします。なにしろ1年間宙ぶらりん状態に耐え、毎日休まず大学に通い、グループワークに参加し、課題を提出し、試験を受けて単位を取得してきたんです。それもうつ病を抱えながら。

なぜ宙ぶらりんに耐えていられたのか。自殺が頭をよぎるたびに、わたしが想起する言葉があります。"Day-tight compartments"。日本語では、「今日1日の区切りで生きる」と訳されます。カナダ出身の医学者、ウィリアム・オスラー(1849-1919)が20代の頃に出会い、悩みから解放された言葉として紹介されています(D・カーネギー『道は開ける』)。遠くにぼんやりと存在する不確かな明日や、後戻りできない昨日を鉄の扉で閉ざし、手近にはっきりと存在する今を「今日1日の区切りで生きる」ことを心がけようとオスラーは言います。

先の見えない未来のことを考えると、悪いことしか思い浮かばず死にたくなります。死ぬまであとどれだけ生きなければならないのかと思うと気が遠くなって、今死のうが数十年先に死のうが同じなんだから、今すぐ人生を終わりにしようという気になります。でも、今日の24時まで生きればいいんだと考えると、肩の力が抜けることに気づきました。24時という「終わり」が見えているせいだと思います。そうやって過去と未来を閉め出し、「今日1日の区切り」の中でなんとか生活を続け、今日に至っています。

こんなやり方がいつまで通用するのかわかりません。あるとき魔がさすとも限りません。でも、他にどうしようもないから、わたしは今年も綱渡りを続けます。病院から内定がもらえなければ、綱渡り候補生としてサーカスに入団することを真剣に考えるかもしれません。

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