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言葉

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」ルカによる福音書1章46-56節

 10月から再び社会人となり、期限付きではあるが、幸いにも大学で仕事ができることとなった。私の働く場所での主な業務は、企業や地域と大学の研究者をつなぎ、共同研究や技術提供を支援することである。それに加え、事務方に出向いて、今年度獲得した補助金に関わる事業推進の管理のような仕事も並行して行っている。この仕事は、大学内外をつなぐだけでなく、学内の研究者と事務方をつなぐ役割も担っているところがある。大学院生として7年余り在籍していたとはいえ、自分の研究に関わる分野の教員以外とはほぼ接点はなく、この大学に実は多様な研究者がいること、また大学全体のことについても、この仕事を始めてみてから知ることがとても多い。

 連携、とひとことで言っても、単に誰かと誰かが協力して研究や事業を行っていくということでは十分ではないことにも気づかされる。もちろんそうした意味は間違っているわけではないが、それだけでは実は進んでいかないところがある。少なくとも、何かを生み出そうとして「連携」する場合、そこにはお金にまつわる契約と役割分担が必要となる。協力しましょう、というのはきっかけに過ぎず、それを何らかの形にすることで、進んでいくところがある。そして、シビアなようでいて、信頼関係を構築していく上で大事な要素でもあるような気がする。

 仕事をしていく中で最近感じることは、企業と研究者をつなぐ以上に、大学内の部署間の連携の方が課題が多いことである。同じ目的に向かっているはずなのに、それぞれ言っていることが食い違っていたり、他部署がどんな仕事をしているか、どれほど忙しいのかを理解していなかったりすることがとても多い。どんな会社や団体でも、少なからずこうしたことはあるような気はするが、そうした場面に遭遇すると自分はどうすべきなのか迷う。場面場面で関わる人にそれぞれ良い顔をしてしまうところもある。結局、そんなときに自分が発している言葉は、周りに合わせて少しだけ誰かを中傷していたり、文句を述べていたりしている気がする。知らず知らずのうちに心が荒んでいっているのかもしれない。

 ナザレの町で結婚を控えていた折に、突然天使ガブリエルから「おめでとう」と言われたマリアは、最初とても戸惑い、「まさかそんなことがあるはずはない」と言ってしまった。それは当然だろう。しかし、天使の言葉から神の御計画と大いなる御力を知り、受け入れた。先に男の子を身ごもったエリサベトを訪ね、主の言葉が必ず実現することを確信した。もう戸惑いの言葉も、文句も、誰かのせいにするような言葉も述べることはなく、ただ救い主を賛美した。自らの役割に生きることを決めた。

 私の役割はなんだろう。私が果たすべきミッションはなんだろう。それは、まだよくわからないし、いつまでもわからないかもしれない。ただ、少なくともどんなときも良い言葉を語りたいと思う。きっとそれは悪いことではない。

2021.12.20

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