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子どもの遊び場と居場所

居場所ってなんだろう?というのを最近ふと考えることが多い。それは子どもの遊び場についてもそうだし、親子の居場所であったり、地域に暮らすいろんな人の、居場所。

「そこに居ていい」ことのありがたさ

まず存在が許されること。そこに居ていいこと。別にありがたがられる必要はなくて、お客さまや女王様扱いされる必要もないのだけど、迷惑がられることがないこと。それぞれが好きに過ごしていい。これって、案外難しい。

わりと元気の良い子ども(特にエネルギー有り余り系ボーイ)をもつ親としては、気軽に電車にも乗れなければ、買い物も最小限で高速処理、図書館もうれしくて走りたくなっちゃう前に退散、美術館やギャラリーなど触ってはいけないものが多いところは近寄らないのが一番だ。

困ったら、そう、公園。どれだけ走り回っても、大きな声を出してもいい。おなかがすいたら、食べたり飲んだりすればいい。座ったり、おしゃべりしたり、歌ったり、踊ったり。いつでも誰でも受け入れてくれる。

いろいろな人が混在する景色

この間、今なにかと話題の南池袋公園に行ったら、多様な人が、それぞれ自分の時間を過ごしていたのが個人的にとっても印象深かった。

コンビニや手づくり弁当でひとりランチをする働く大人、テーブルでPC作業をしたり電話をするビジネスマン、読書学生、スマホ人、おしゃべりする旅行者、ごろんとするホームレス、楽しそうなカップル、何かの勧誘をするおばちゃん軍団。オシャレな男女や、美しい格好をした育休中らしき母子や、まぶしいマダムたち。幼稚園帰りの親子、赤ちゃんづれの昼缶ビールママ友。この圧倒的な幅の広さは、池袋ならではなのでしょう。町の縮図みたいな風景。特にそれぞれの交流はないけれど、同じ空間内に、いろいろな人がそれなりに混在していた。誰も否定されない。誰も排除されない。それってステキなことだよなあ。

親もほっとできる、親子の居場所。

心地よい親子の居場所。私の中のその原点のひとつが、つくし公園と長谷子ども会館。

行けば、誰かがいて、だれもが自由に遊べた。年の違う子もその場でなんとなく一緒に遊んでいた。一緒に遊ばなくても、お互いを大切にしていた。お絵かきしたい子が増えたらテーブルを少し譲りあったり、小学生が卓球をしているところによちよち歩きさんが入っていっちゃえば、声をかけて安全なところまで連れ戻してあげたり。誰かが、みんなが、温かく見守りあっていた。

私はそこでいろんな子どもの様子を見て、個性の違いや、遊びの発展や、子ども同士の関わり方のいろいろな場面を知った。数年後は我が子もこんな風に遊ぶようになるのか〜とか、こういうのが得意な子もいれば別の何かが好きなタイプもいるよねとか。まさに、リアルな、生きた、学びの場。幅広い年齢の子どもたちの世界に触れることで、暗黒洞窟の中のように目の前のことで精一杯な毎日の中にも、ちょっとした未来への光が見えたりした。

はじめて小学生の知り合いもできたし、女の子たちが頭を寄せ合って楽しそうに話している姿や、小学生男子が子ども会館の先生と将棋を指している景色が大好きだった。

そして何より、大人同士で気軽におしゃべりできることが、うれしかった。鎌倉で暮らし始めたばかりの私、子どもを幼稚園に通わせ始めたばかりの私にとっては、いろんなことが未知の世界だったけど、同じ幼稚園だけど普段話す機会のないお母さんとも、そこで仲良くなれたし、上のきょうだいが何人もいるお母さんたちとのおしゃべりは、視界が広がって、なんとなくほっとできて温かく、同時に興味深い時間だった。「あるある!」「だいじょーぶだよー!」と小さな悩みも一緒に笑っちゃうくらい、安心をもらえた。

親はみんないつも頑張っている。頑張りすぎて苦しくなったり、真面目に考えすぎて追い詰められてしまうこともある。心配しすぎが怒りに変わったりして、おかしなことにもなる。いろんなことが紙一重だ。そんな時に、子どもを一緒に放牧しながら、気軽におしゃべりできる人がいて、「大丈夫だよ!」と一緒に笑える場所があったら、虐待なんかの悲しいニュースも少しは減るんじゃないかとも思う。

子どもの遊び場に必要なことって?

そんな我らがつくし公園(どんな公園かは、ごみひろい+おしゃべり会のnoteにも書いてあるのでよかったらどうぞ)と共にあった長谷子ども会館。2018年4月、耐震性を理由に突然閉鎖されてしまったのだけど、それはそれは素晴らしい親子の居場所だった。

一体何がよかったのか?どういう要素が良さを形成していたのか?それはきっと、これからの子どもの遊び場や、親子の居場所を考えていくときのヒントになるんじゃないか。ということで、長谷子ども会館が地域で果たしていた役割について、仲間と一緒にまとめてみました。その中からピックアップして紹介したいと思います。

自由な遊び場であること

ここは、すべての子どもの意思が尊重される自由な遊び場だった。

「いつでも」は大切なキーワード。自分の都合や気持ちに合わせて、予約も必要なく、来る時間・帰る時間を子どもが決められるという自由。雨の日も、夏休みの暑い日も、真冬の寒い日も、基本的には、子どもの意志で、いつでも遊びたいときに、遊ぶことができる場所。

そして「だれでも」も重要なところ。乳児から中学生まで、お金を持ってこなくても、だれでも自由に利用できる場所。小学生は学校併設の施設、赤ちゃんは子育て支援センター、など属性で分類される場合が多いから、3人の子どもがいる家庭なんかは困ったりする。年齢や学区・地域・所属を問わず遊べる場所は貴重。きょうだいで一緒に遊べる。他校、異年齢の子どもと遊べる。年齢や学校の枠を超えて、地域のお兄さん・お姉さん、小さい子と遊び成長していく自然な機会がある。

中でも外でも遊べる自由。隣の長谷つくし公園と良好な関係にあり、行き来しながら、両方で遊ぶことができた。公園に遊びに来た子どもにとって、子ども会館は、大人の目が届く安全で安心なトイレという重要な役割も担っていた。鎌倉地域には屋内遊び場が少なく、雨天や猛暑・寒い冬でも天候に左右されず、屋内で身体を動かして遊べる場所は宝。気持ちや天候によって、中でも外でも、好きなように遊べる環境はうれしい。

多様なこどもたちの居場所であること

誰一人として取り残さない、みんなを温かく迎え入れてくれる場所だった。

子ども会館には見守りの先生がいて、子どもに寄り添う温かい大人の目があり、受け入れてくれる場所でした。先生はシニア世代中心だったので、子ども、親、シニアの多世代が混在し、認め合う温かさがあった。

そして家庭でも学校でもない居場所という要素。学校とは違う人間関係で過ごせる場所。学校に行かない日も、安心して過ごせ、家でケンカをして家出をした時にも、真っ先に頼る場所。こういうサードプレイス的な場所が地域にあるって、子どもも大人もほっとする。

行けば友達や先生がいて、待ち合わせもでき、車や観光客の出入りも少ない場所にあるので、子どもがひとりで行ける場所だった。小学校になると一人で遊びに行ってもいいよと言える、子どもも一人で行けることが喜びであり、親も安心な場所は、鎌倉地区では希少。

塾でも習い事でも学校でもない、ゲームセンターでもない、放課後の安全で自由な居場所。忙しい現代子ども社会の中でも、課題や勉強のない自由な空間。思い思いに過ごしていい場所。マンガやレトロな玩具、将棋やボードゲーム、卓球や縄とび、ぬりえは子どもたちにとっての楽しみだった。

子育てを支えてくれる場

ここには、子どもは地域みんなで育てるという、ひとつの形があった。

親同士の交流の場でもあり、多世代が混在する場は、親も安心し安らぐ場所。多世代から学べる場、他の子どもを知る機会・気軽におしゃべりできる場は、孤立した子育て、視野狭窄による虐待への心理の予防にもなる可能性があるかもしれない。

鎌倉らしい豊かな日常

ここはちょっと特殊かもしれませんが、明治時代に建築された景観重要建築物を子どものための遊び場として利用していた長谷子ども会館は、歴史と文化と自然に囲まれた質の高い環境でした。

歴史的で美しい建物の中で、未来を担う子どもたちが日常を過ごせることは、貴重で他地域には存在しない環境。感性の豊かな子どもたちが文化的な環境で過ごすことは、非認知能力や美意識・創造力を育てることにも繋がっていくかも。


公園ももちろんなんだけど、もっと広く考えて、なんか、こういう、自分の暮らす街の中の、安心できる居場所って改めていいなあ、と思うのでした。



長谷子ども会館のその後については、再開を願う活動が続いています。

上に書いたような内容が1ページにまとまったものも。



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