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子供を産み育てたい社会なんてあるのか?

出生率が過去最低となり話題を呼んでいる。「子供を産み育てたいと思える社会にしよう」と言われて久しいが、社会が変われば子供を持ちたいと思うだろうかと自問した。

「もっと社会が〇〇だったら子供を持ちたいのに…」と思う人が多いから、行政がこのような方針を打ち立てているのだろう。一方、私は根源的に出産・育児への意欲がない。社会が多少変わったところで「子供を産み育てたい」と思える自信がない。

「社会の情勢によらず出産意欲のない人」の一人として出産・育児への考えを記す。出産済みの人、出産意欲のある人を否定する意図はない。一方で、出産意欲のない人も堂々として良い。国が少子化で困っていようが、周囲から出産を促されようが、個人の好み(子供が欲しいか、欲しくないか)を最優先すべきだ。


出産・育児はギャンブル

親にとって、出産・育児はギャンブルだと考えている。親には出産の瞬間から最低18年間の養育の責任が発生する。今後18年間の社会情勢、生活環境、私と妻と子の思想や健康状態が予測できれば安心だ。しかし、そんな予測は最新の量子コンピュータをもってしても不可能だろう。

「出産前は色々考えたけど、いざ産まれたらかわいいし最高だよ」

こんな意見が散見される。彼ら彼女らは、ギャンブルに勝利しただけだ。「FXで大儲けした」という話を聞いて「FXやるぞ」と思うだろうか。私は窮地に追い込まれて一発逆転を試みるような状況でない限り、ギャンブルには手を出したくない性分だ。

現状、子供がいなくても十二分に幸せなので出産というギャンブルに興ずる気はない。逆に言えば、退屈に押しつぶされて、大きな変化を求めている場合には出産というギャンブルが魅力的に映るかもしれない。しかし、私は暇つぶしが得意なので退屈に陥る気配はない。

子は親のギャンブルに巻き込まれる存在

親にとって出産がギャンブルならば、子は親のギャンブルに否応なく巻き込まれる存在だ。ギャンブルに勝てば親子は幸せだろうが負けることもある。

私は「子」としてはギャンブルに勝った。父母共に健康体で、ネグレクトや虐待に遭ったこともなく「子」として概ね幸せな人生を送れた。運が良かったのだ。私は親の独断により誕生した人間に過ぎない。私が自身の誕生を決断することも、親を選ぶことも不可能だった。当たり前の話だ。

一か八かで出産をしない限り、私は「親」としての自分(と妻)を認識できない。「サイテーな親」になるかもしれないし、突然死して子を孤独にさせるかもしれない。子に「産まれたくなかった」と思わせる可能性を考慮してもなお出産に踏み切るほどの意欲はない。

「楽しい」よりも「苦しくない」

私は子供一般が嫌いなわけではない。公園で遊ぶ親子を見ると、楽しそうだなと思う。自分のDNAを持つ個体がどのように思考・行動するのか、その成長過程を観察したい好奇心もある。

ただ、公園で楽しく遊ぶ親子の姿は「いい場面の切り抜き」に過ぎない。「いい場面」だけを見て育児を楽観視するのは短絡的。育児で辛い思いをして夫婦仲が悪くなったり、子に当たったり、最悪の場合は健康を害する人もいる。会社員時代、子を養うために寿命を削って働く社員を大量に観察した。

「親になれば、自分の幸せより、子の幸せを求めるようになる」

こんな意見も聞いたことがある。これこそ、一か八かで親にならないと分かり得ないが、私は自分が幸福でない限り(たとえ我が子であれ)他者の幸福を喜ぶことなど不可能だと考える。

育児は快楽と苦痛の両方を孕んでいるのだろう。育児に参加しなければ育児に伴う快楽も苦痛も味わうことはない。私は「快楽の存在」よりも「苦痛の不在」に重きを置くので、やはり、平穏な子なし生活を捨ててまで出産したいとは思えない。

出産にはリミットがある問題

男女共に生殖能力は経年劣化する。アレコレ悩んで出産を先延ばしした結果、加齢が原因で出産できないとなれば後悔しかねない。

「出産にはリミットがあるから、悩んでいる暇はない」

一面的には正しいが、どこかスッキリしない感がある。リミットがあるからという理由で検討を重ねずに出産に至るのは「セール期間中の衝動買い」に似ている。期間限定セールで割引だからという理由で、大して必要ではない物品を買うのと同じ発想に思える。

本当に欲しいものなら定価でも購入する。同様に、本当に子が欲しければ適齢期に出産を望むはずだ。少なくとも、私たち夫婦は21歳で出会い、25歳で結婚しているので考える時間はたくさんあった(ある)。適齢期に決断しなかったということは、根本的に出産意欲が薄かったと解釈できる。産まずに後悔するより、結論を急いで産まれてから後悔する方が悲惨だ。

出産と育児は別物

自分で産んだ子を自分で育てるのが「普通」とされている。出産と育児は一緒くたにされがちだが、切り離して考えてもいいかもしれない。

村田沙耶香『消滅世界』にて、人工授精による出産が定着し、公共機関が人工授精の担い手を管理する世界線が描かれていた。出産は公共機関から個人に委託される責務で、育児は公共機関が一手に担う。人工授精で産まれる子は自身の配偶者の子とは限らず、しかも、男女を問わず妊娠・出産できる世界。我が子という概念は消え、大人はすべて「おかあさん」と呼ばれ、子供はすべて「子供ちゃん」と呼ばれる。すべての大人がすべての子供を育てる。社会全体で育児をする究極形だ。

他のシステムの中で実際に繁殖をはじめてみると、「家族」というのは無数にある動物の繁殖システムの一種にすぎなかったのだと思えてくる。

村田沙耶香『消滅世界』

現実にも「産んで、なおかつ育てたい人」「産みたいが、育てたくない人」「産みたくない(産めない)が、育てたい人」が入り乱れている。私は女性とは違い身体に負担がかかることはないので、産む(産んでもらう)のは構わない。しかし、育てたいとは思わない。

現状は出産すると親権や養育義務が発生するし、里親委託に抵抗感を抱く人も多い。ただ、そこらへんの「常識」は制度設計や啓蒙活動でいかようにも変えられる。『消滅世界』ばりに社会が大変革すれば、少子化問題は解決するかもしれない。

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