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ショートショート どろどろの口づけ|ピーター・モリソン

5分で読める、フェチズムショートショートです。
※フェチズムに耐性及び理解のない方は、読むことをお勧めしません。

 どろどろの口づけ


「ここに、何かいるような気がして」

 紀寺きてらアリスは喉の痛みを訴えた。

 顎のラインで切り揃えられた髪が印象的で、潤みがちの瞳が不安げに揺れている。手足は細いが、どこか肉感的な印象を与えた。

 休日診療。彼女は最後の患者だった。

「口を開けてもらえますか……」

 ペンライトで照らし出される口の中は、とても綺麗だった。ヘラで形のいい舌を押さえながら、その先を凝視する。雑念を追い払い、彼女の痛みの原因を探っていった。

 ……ああ、確かに。

「喉の奥に傷があるようです」

 ペンライトを消して、私はカルテに所見を打ち込んだ。

 彼女はハンカチで口元を押さえていた。

「もう少し、調べましょう……。ちょっと我慢してください」

 内視鏡を準備し、彼女の口へ入れていく。パネルを操作し、サイドモニターへ視線を送った瞬間、私は顔を強張らせた。……何だ? 中咽頭ちゅういんとう下部から下咽頭に至って、傷が一面にある。どうすればこんな傷が出来るのだろうか。

 いや、これは単なる傷ではなく、文字のように見える。それらがいくつも並んでいる。

 タトゥー? まさか、身体の中だ。

 内視鏡を操作し、それらを拡大していく。よく見ると、文字を構成している線という線は、赤い点の集合で構成されている……。

 私はその文字を心の中で読み上げた。

〈アリス きみを かんじている〉

 これはおそらく……彼女、紀寺アリスへ向けたメッセージなのだろう。しかし、これはいったい……。彼女の中に、誰かいるのか? そんなばかな。……自問自答を続けながらモニターを凝視していると、突然、黒い影が横切るのを見て取った。

 何だ。

 慌てて内視鏡の位置や角度を変えてみたものの、もう見つからない。

 彼女が苦しそうな仕草をしたので、これ以上はと諦め、私は内視鏡を抜き取った。

「……喉の奥がかなり傷ついていて、炎症を起こしています」

 文字のことをどう伝えればいいのかわからず、咄嗟にそう言った。

「……症状の原因に、何か心当たりはありませんか?」

「ここに違和感を覚えるようになったのは、旅先で事故にあってからだと……」

 彼女は喉を擦った。

「事故……?」

「ええ、半年前のことです……」

 彼女は母校のケービングサークルの仲間数人で、東南アジアの洞窟を巡る旅をしたらしい。そこで落盤事故に巻き込まれたという。

「地元の病院に入院しました。……打撲や切り傷で、怪我はたいしたことなかったのですが。……帰国してしばらく経ってから、喉に変調が現れて」

 事故そのものはおそらく関係ないだろうと私は思った。どう考えても、あの文字が自然発生的に現れたとは考えにくい。

「旅先で、普段しないような、何か変わったことをしませんでしたか?」

「いえ、特に思い当たることは……」

 小さく首を振る。

 彼女に、モニターに映った映像を見せるべきか、私は躊躇ためらっていた。彼女自身、何も知らないのだろうか。いや、知らないふりをしているだけなのか。……どうやったらあんな文字が体内に書けるのか。疑問だけが渦巻いた。

「先生、わたし……」

 言葉を詰まらせたが、小さく頷くと静かに話し始めた。

「事故以来、何もかもがすっかり変わってしまった、そんな気がするのです。まるで誰かが運転している車にずっと乗っているような、おかしな感じなんです」

「自分のようで、自分じゃない……?」

「そうです。……事故によるPTSDの症状かと思って、その方面の治療もしてみましたが、効果はなく、その感覚は日増しにひどくなっていくばかりで……」

「……紀寺さん」

 私は彼女の話を遮った。

「これを見てくれませんか……」

 意を決し、内視鏡で撮影した映像を再生し、モニターを彼女の方に向けた。

 その映像を見て、彼女一瞬驚いた様子を見せた。が、すぐに平静を取り戻し、映し出される文字を食い入るように見つめた。

「これが、わたしの中に……」

「ええ、そうなんです」

 私は映像を止め、肝心の部分を拡大した。

「紀寺さん、これはいったい何なんですか?」

「……あの」

 私の質問をかわすように、彼女はうつむいた。

「言い忘れたことが一つあります」

 膝の上でマニキュアの指を伸ばす。

「……旅先の事故で先輩が一人、亡くなりました。岩の下敷きになったのです。……その人は、わたしの大切な人でした……いつもそばにいて、わたしを支えてくれていたんです。だけど……」

 そう言い終わるや、彼女は滑るように診察椅子からくずおれた。

「紀寺さん……。紀寺さん?」

 呼びかけつつ、私は膝を折った。何かの発作だろうか。呼吸はしているが、意識がない。とりあえず抱きかかえて、診察台に寝かせてみる。

「大丈夫ですか?」

 再び呼びかけると、彼女はごろごろと喉を鳴らした。呼吸が出来ないのか? すぐに気道を確保しかけたが、薄く開いたその口に何かがせり上がって来ているのを見て、私は手を止めた。

 それは黒い塊のように見えた。のたのたと唇の隙間から這い出してきて、その動きを止めた。

 何だ、これは?

 どろどろとした粘液に包まれている。

 ……真っ黒い胴体から、短い手足と尾っぽが生えていた。体長は二センチ弱。その姿は蛙になる前のおたまじゃくしと海牛うみうしをかけ合わせたようななりをしていた。

 その奇妙な生き物は短い首をひねり、点のような小さな瞳で私をぐっと見据えた。明らかな意思のようなものが、そこから感じられる。

 思わず息を飲む。

 すると、くっと耳が詰まり、身動きが取れなくなった。その生き物と私とが緊張した糸のようなもので、ぴんと結ばれたように感じた。

 不意に。

 ぐいと、その糸に引っ張られ、私の意識は身体から引っこ抜かれると、弧を描きながら軽々しく宙を飛んだ。ついにはその生き物の眼前に迫り、伸びてきた舌でにゅるりと絡め取られ、口の中へまんまと運ばれた。

 何が起こったのか? 

 誰かの悪夢へ、無理矢理放り込まれたようだった。





 生き物の内側は、暗闇だった。

 現実と幻、その狭間にいるような気分だった。

 しだいに、意識が血のように広がっていき、生き物と同化していくのがわかる。それがどんどん強くなり、骨格や筋肉と繋がっていく。

 目蓋らしきものを感じた。それを外側へ押し開くと、眩しさが目の中に飛び込んできた。

 その痛みに耐えかねて、咄嗟とっさに目を伏せる。滲んだ視界の中、イボのような指がうごめいている。それらは意志と共に自在に動くのだ。

 あの生き物になってしまった、私はそう悟った。

 変わり果てた小さな私は、彼女の唇の上でぼんやりと佇んだ。事の重大さは理解出来る。が、気持ちがついていかない。当事者としての意識がかなり希薄だった。

 光に抗いながら、視線を遠くへ投げると、自分の本当の姿が目に入った。

 無造作に床の上に倒れている。放り出された操り人形のようだ。あそこから目に見えない糸を辿って、私はここに来たのだ。

 なぜこんなことに。

 あそこに、戻らないと……。

 まだ、仕事は残っている。

 しかし、気持ちは空回りするだけで、何も進まない。自分の中に戻ることがとても億劫なことのように感じられる。洗濯籠に脱ぎ捨てた服を、また一から身につけるそんな煩わしさに似ている。

 そうやって自分の抜け殻と向き合っていると、しだいに、ひりひりとした痛みに包まれ始めた。薄い皮膚が乾燥してきている。水分が失われると死ぬぞ。この生き物の本能が私に囁いてくる。

 死ぬ、どうすればいい?

 私の困惑をよそに、本能が身体を動かした。よちよちと彼女の口の縁を歩いたあと、唇の中へぬるりと滑り込んだ。前歯の隙間から、歯茎の窪みにある唾液の泉に落ちる。暗闇に反応したのか、私の身体は勝手に発光した。薄明るい。濡れた手足で、舌の上へ登った。

 呼吸に混じった彼女の匂いを強く感じる。くらくらするほどの甘い匂いだ。ずっと嗅いでいたくなるような……。

 首を伸ばし、喉の奥を眺めると、文字が目に入った。気管を刺激しないように近づいていく。内視鏡で覗いた通り、そこには生々しい傷、いや文字が並んでいた。

〈このせかいに きみと二人きり〉

 赤い火脹ひぶくれのような線だ。それは波打つように太くなり、細くなる。ひっかき傷とも違うのだ。

〈おれのこころ とけて かがやいた〉

 私の手足は肉壁に勝手に吸いついた。重力に逆らいながら、文字の上を這い回り、順番に読んでいく。

〈どろどろの中に おれの きおくは のこる〉

 どろどろ……?

〈さようなら あいしている〉

 文字はそこで終わっていた。

 愛している……。何度も心の中でそう唱えながら、ぴたぴたと食道を下へ辿り、胃の入口近くで新たな文字を見つけた。

〈つぎの人へ〉

 次……。

 それが私へのメッセージだと、直感した。

 誰かがいたのだ、ここに……。

 胃の中はまだ見ていない。躊躇わず頭を突っ込む。思った通り、そこには文字の群が広がっていた。

〈このいきもの ちみもうりょう〉

〈なまえ つけた どろどろ〉

 真っ黒な自分の手に目をやると、それは粘液にまみれている。どろどろだ。

〈どろどろに であった とうなんアジア どうくつ〉

〈らくばんじこ〉

 彼女が話していた旅先での事故のことだろうか。

 動きを止め、思案を巡らせていると、急に頭の中に映像が立ち上がってきた。

 誰かの記憶のようだった。

 どろどろの中に残されていたものだろうか。おそらく、この文字の彼。……確か、先輩が一人亡くなったと、話していた。

 その記憶に意識を向けると、ぼんやりとした映像が私をぐるりと包み込んだ。

 そこは、見知らぬ洞窟だった。

 彼の視点は私のそれになっていた。

 ……仰向けになった身体の上に、大きな岩が乗っている。天井の岩盤が崩落したのだろう。身体を捻ろうとするが、ぴくりとも動かない。内臓がべっちゃりと潰れて駄目になっているのがよくわかる。意識的に息をしなければ、そのまま息絶えそうだ。

 誰か。

 首をひねった先に、妙な生き物がいた。

 どろどろだ。

 この洞窟に棲んでいたのだろうか、それとも岩盤の中に閉じ込められていたのか……。

 どろどろと視線が合った。彼を求めているのがわかった。

 だから助けてと、彼は願った。

 すると、いとも簡単に意識は引きずり出され、どろどろの中へ。さっき私が体験したものとそっくり同じだった。

 どこにいる? 彼は何かを探していた。

 視線が洞窟内をさまよった。やがて、地面に倒れていた紀寺《きてら》アリスの姿を見つけると、彼はそこに向かって這い始めた。

 どろどろの短い手足を交互に動かしながら、意識を失った彼女に近づき、這い上がり、その口の中へ忍び込んだ。

 アリス……。

 そこから記憶は断片的になり、ついには明け方の夢のように光の中に消えていった。

〈あいが あふれると おれはとける しあわせ〉

 彼はこの文字を残して、どろどろの中で溶けてしまったのだろう。どろどろは女に寄生し、出会った男の意識を捕え、溶かしながら喰うのだ。

 そんな生き物がいるわけない。しかし今、この私がそれなのだ。

 胃から這い上がり、食道を登りながら考えた。

 どろどろの存在自体はもちろんのこと、文字の形をした傷が彼女に痛みを与えていたのだ。しかし、どうやってこれを書いたのだろうか? 思考を巡らせていると、ひどく眠たくなってきた。

 とても、疲れている。突拍子もないことばかりが続いた。……少し休むべきだ。

 腹をつけ、彼女の心音を聴きつつ、私は目を閉じた。



 あれからどれくらい経っただろう。

 私はどろどろになって、彼女の中で暮らしている。

 彼女の外には出ていない。自分へ戻ろうとも思わない。医者としての仕事にはやりがいを感じていたはずだった。しかし……もうどうでもよくなっていた。

 どろどろの身体がそう思わせるのだろうか。

 ここは生温かく、湿っている。気が遠くなるほど心地がいい。生まれ出ない赤ん坊のように、彼女の体温と鼓動に抱かれる毎日に、いつしか満足するようになった。

 彼女が眠ると、私は舌をもてあそぶ。しがみついたり、その下に隠れたり。ときおり唾液が溢れ、舌が動き(無意識なのだろう)、私を舐めてくれる。

 身体を発光させながら、喉の奥へ行き、肉壁に小さな両手を当てる。

 唇をつけ、ちゅうと彼女に吸いつく。

 そこに赤い痕がついた。そのすぐ隣にも吸いつくと、点は線になった。線はやがて文字となる。

 こうやって愛を伝えるのか。

 私は戦慄わなないた。

 愛が溢れると、意識が溶ける。

 きっとその蜜のようなものを、どろどろが食らっているのだろう。

 彼が消えたように、私もいずれ消えるのか。

 それなら、それでもいい。

 口づけを続けながら、私はそう思った。 

 <了>

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