ショートショート お餅を吐く|ピーター・モリソン
お餅を吐く
お風呂上がり、いつもの寝言が聞こえたので、私は父のところに行った。
お酒と煙草と、父の匂い。節榑立った手に触れて、その温度を近くに感じる。
二人きりになって、もう四年が経つ。
「ふうちゃん……」
その優しい口調を耳にしながら、私は目を細める。
父の寝言を最初に聞いたのは六月の初め、ちょうど嫌々続けていた中学の部活を引退した頃だった。
洗面所で髪を乾かしていると、微かに、声が聴こえてきた。ドライヤーを止めて耳を澄ます。父の声、私を呼んでいる?
どうしたのだろうと心配になり、父の部屋へ行くと、父は布団で眠っていた。最近、土曜の夜はお酒を飲んで帰ってくることが多い。気づかぬうちに帰宅して、そのまま眠ってしまったのだろうか。掛け布団が少しはだけ、斜めになった枕に頭を横たえている。
「……ふうちゃん……ふうちゃん」
目を閉じたまま、父ははっきりとした寝言を口にしたものの、私は違和感を覚えていた。父は私の名前を呼ぶとき、ふうかと言う。それに声は父のものだが、口調は明らかに父とは違っている。ふうちゃんと呼ぶのは、死んだ母だけだ……。
「……お、お母さん?」
まさかと思いつつ、部屋の隅から尋ねてみた。
「そう、元気?」
父は寡黙で不器用な方だ。こんな手の込んだ悪戯をするとは到底思えない。何か伝えたいことがあって、死んだ母が父の声を借りているのか? そう考えれば辻褄が合うけど、にわかには受け入れられない。
「そばに来て」
本当に母なのか?
明らかにその声は私を誘っていた。
「ねえ、手を繋ごう」
聞けば聞くほどに、それは母に思えてくる。私は躊躇いながら、その手を取った。
「こっちにおいで」
「……お母さんなの?」
「そうだよ」
父の隣に身を横たえ、その寝息を近くに聞いた。
「ふうちゃん、お話ししよう」
父を起こしたくなかったので、天井を見つめながら頷いた。
「目を閉じてみて」
気づくと、夢の中にいた。
しかし、それが自分の見ている夢じゃないのが、なぜかはっきりとわかった。
ここは夕暮れのキャンプ場だろうか……。
ごそごそという気配に振り返ると、そこに黄色のテントが建っていた。チャックが内側から開き、元気だった頃の母が顔を出した。
「ふうちゃん、久しぶりね」
変わりないその口調に、私は戸惑った。
「……お、お母さん……何してるの?」
声が震えているのが、自分でもわかった。
「さとしの夢の中でキャンプしているの」
さとしは父の名前だ。……けど、そんなことはどうでもいい。
「今更だけど、ふうちゃんのことが気になってね」
私は堪らなくなって、母に抱きついた。そのままテントの中へなだれ込む。
「もう、お母さん、お母さん……」
涙を流したいけど、うまく泣けなかった。
また会えた。その気持ちだけがどんどん膨らんでいく。寂しかった夜や、ずっと我慢してきたことや、それらを母にぶつけたいのに、言葉が詰まって出てこない。
涙が溢れてきて、心が空回りして、息がうまく吸えない。苦しい。過呼吸? いったい私はどうしてしまったのか?
あまりの辛さに母から身体を離し、テントの床にうずくまり、喉に手を当てる。ひいひいと、どうにもならない。
「大丈夫? ……ふうちゃん」
私は母に抱きかかえられた。
「口を開けて」
身悶えながらも言われた通りすると、母は口の中へ指を差し入れた。この異変を予め知っていたかのように、その表情に焦りはなかった。
「……まかせて」
昔、こんなことあったような気がする。そう思いつつ目を閉じる。
母の細い指が私の喉のつかえを挟み込み、にじにじと引っ張り上げていった。やわらかく、濡れている。結構大きい塊のようで、私は目を見開いた。
くっと、それが抜けきった瞬間に、一気に苦しさが消えた。
息を整えつつ身体を起こすと、私から取り出されたものを母は見せてくれた。アルミのクッカーいっぱいに受けられたそれは、ぱっと見は灰色のパン生地のようだが、もっと湿っていて重い、色の悪いお餅に近い。
「これは?」
喉を擦りながら、母に訊いてみた。
「ふうちゃんの心だよ」
「……え?」
心って。目の前に出てしまっているし。しかも、それはとても綺麗とは言えなかった。
「……外へ出ようか」
母は私の手を取って、そばを流れている小川へと導いた。
「そこで待ってて」
流れの中に足を浸けて、母はクッカーから取り出した私の心を洗い始めた。
空っぽの私は岸辺の石に腰を下ろして、その様子を見つめた。じゃぶじゃぶと、私の心は少しずつ綺麗になっていく。川の水が濁り、汚れが流されていく。
どうして私の心はあんなにも汚いのだろうと、考えてみる。
母が死んでからというもの、自分を保っていることだけで精一杯だった。
少しでも気を抜くと、悲しさや寂しさに包まれて動けなくなる。だから、他人のことまで気が回らなかった。だからだと思う、気づいたときにはクラスメイトとの関係がうまくいかなくなっていた。小さい嘘をつかれたり、不意に無視されたり、約束をすっぽかされたり。そんなことをされれば正直辛い、もうどうすればいいのか、わからなくなっていた。
だから心も、ああなるんだろう。
母は黙ったままで手を動かしていた。何も言わないけれど、私のデリケートな何かを感じとってくれているような気がした。
「もういいかな」
私の心を洗い終えると母は、キャンプ場の竈でそれを蒸し始めた。
「これでふっくらとするから」
立ち上る蒸気を眺めながら、私はやっと、伝えられなかった言葉の数々を母に語って聞かせていった。
「そう、寂しかったね、ふうちゃん」
母は私に寄り添い、滲んだ涙を指先で拭ってくれた。
いつの間にか日が落ちて、満月が林の上に顔を出していた。
そういえば、母が死んだ夜も満月だった。小五の秋、病院の上を眺めた、あの黄色の丸い月を思い出していた。
「そろそろいいかな」
蒸し上がった私の心は白さを取り戻していた。
母はそれを細かく千切り、丸め、きな粉をまぶしていった。見る間に、私の心がテーブルの上に並んでいく。
「……食べてみて」
小さく丸められた私の心を口に運ぶと、それは温かく、やわらかく、甘かった。お腹が減っていたのに気づく。空っぽだった自分は、それらを欲しているようだった。すぐに二つ目を口に入れる。
「ふうちゃんの、もらうね」
母は満月も眺めながら、私の心を一つだけ食べた。
それから何度か、私は父の夢の中で母と会った。
(もちろん、父が目を覚ます前に私は布団を出ているので、そのことを父は何も知らないし、夢自体も覚えていないようだ)
母は入れっぱなしの洗濯物を鞄の中から出すみたいに、私の心を取りだし、同じ工程を繰り返して、最後にきな粉をふった。
私は黙々とそれらを食べて、身体に納め直した。
そのせいか、だいぶ心が軽くなった。クラスメイトとの関係も日毎に改善していった。心に余裕が生まれると、他人のことがよく見えるようになる。
そんなある日、塾の帰りに父の姿を偶然目にして、その場で足を止めた。
見知らぬ女の人と一緒だった。
咄嗟に物陰に隠れる。鞄を抱きながら、窓際で向かい合わせに座る二人をうかがった。
コーヒーを飲んだり、ケーキをつついたり、その様子で何となくぴんときた。私にもそれくらいはわかる。途端に心がざわつき出した。こんな想いを子供にさせるのはどうなのか、と思った。大人の男は女の人がいないと生きていけないのか、とも思った。
私のことなんてどうでもいい?
そんな被害妄想を掻き立ててみたが、父を嫌いになるというのも、何だか短絡過ぎて子供染みている。……でもどうしよう、そう思いつつも、家路を辿る自分が比較的冷静なことに驚いていた。
もし、夢の中で母に会っていなかったら、きっと、こんな感じで受け止められていなかったと、母に感謝した。
その夜、父は帰ってくるなり、次の土曜日に食事に行こうと私を誘ってきた。問いただしたいことが口から溢れかけたけど、無理やり抑えつけた。
「誰か来るの?」
きっとあの人だと思いつつ、あえてそれだけを訊いてみた。
父は煮え切らない返事をするばかりで、少し追求するとしどろもどろになり、ついには自分の部屋に引っ込んでしまった。
当日、父のあとについて居酒屋の個室に入ると、あの人がいた。
ちとせさん、父はたどたどしく紹介した。
私も緊張していたが、ちとせさんは私の倍は緊張していたようで、笑顔がぎこちなかったり、声が微妙に裏返ったりした。
父はお酒を飲むだけで、いつもようにほとんど話さない。だから、共通の話に辿り着くまで苦労した。
ちとせさんは中高でバスケをしていた。私もバスケ部を引退したばかりだったので、部活のあるある話でなんとか会話をもたせた。
何度か父に意味ありげに視線を向けたけれども、結局、ちとせさんが父の何なのかという説明は、最後までなかった。
それから月一くらいで、三人で食事をするようになった。
ちとせさんはどことなく母に似たところがあった。大皿の料理を取り分ける手つきとか、不意に見せる仕草とか。その存在が重なる度に懐かしさが込み上げた。けれど同時に、母に対する申し訳なさや罪悪感がきりきりと、私の胸を締めつける。
前にもうしろにもいけない。
そんな目に見ない力がちとせさんとの距離をつくり出していた。
「さとし、やるなあ」
私の話を聞くなり、母はそう言った。
久しぶりに寝言を聞いたものの、父の布団に入るのはきつかった。父はもう以前の父ではない。けれど、母に話さないといけないこともある。
私は渋々、いつもより距離を取り、目を閉じたのだ。
「……で、どんな人?」
死んだらそういうのは気にならなくなるのかと思ってみたけど、そんなこともないのか……。
「名前は、ちとせさん……」
私が言い淀むと、母は前髪をあげつつ、私に額を合わせてきた。母の匂いを感じる。目を閉じて、ふうん、そうか、なるほどと言う。私の記憶を覗いている様子だった。
「大丈夫、その人、いい人。ふうちゃんを大事にしてくれるから」
まるで占い師みたいな口調で言ってみたものの、少し寂しそうに母は吐息を漏らした。
「ふうちゃん、どんどん食べてよ」
私は俯きながら、心を口にした。どういうわけか、甘さと温かさがいつにも増して身に沁みた。
父の夢の中にこうやってテントを張っているのだから、未練がないとは言いきれない。今更ながら、ちとせさんのことを話さなきゃよかったと思えてきた。
「ごめんなさい、お母さん」
「ふうちゃんが謝ることじゃないよ。怒ってもないし」
母がここから出ていってしまう、そんな予感がしていた。もしかしたら、今夜が最後? 途端に辛くなって、私は母に抱きついた。
「お母さんのことは気にしないで。その人に心を許してもいいのよ」
私は首を振った。
「ふうちゃんの心、もう一つもらうね」
母は私の頭を撫で、もぐもぐとやった。
視線の先に満月。それは朧に霞みつつ、黄金色に染まっていた。
その光の向こうには、心が逝くべき別の世界がありそうな、そんな神秘的な輝きを放っていた。
あの夜以来、父の寝言を聞いていない。
やはり母はどこか遠くへ行ってしまったのか。そうなるのが自然の流れなら、仕方ないことだと思う。
けれど、私の心はいったい誰が洗ってくれるのだろう。きっとひどく汚れているに違いない。私の知らないうちに、人を傷つけているのかもしれない。口の中に指を差し入れてみたが、当然の如くそこには何もなかった。
それから一年後、父はちとせさんと籍を入れた。
式は挙げず、報告だけがあった。いずれ再婚するのなら、ちとせさんという父の選択は間違いない。それは認めるが、とうとうそうなったかという想いは、やはり私の中に大きくあった。
結婚したのだから一緒に住むかと思ったが、私に気をつかってか、互いの住処を行き来する生活を続けた。
私は県外の大学を志望校に選んでいた。父には負担をかけるが、家を出て一人暮らしを始めようと決めていた。いずれ私がこの家を出たら、二人は一緒に住むだろうか。そんなことを考えながら、ときどき重なり合う三人の時間を過ごした。
家族として、ちとせさんとどう接していいのか、迷っていた。同じようにちとせさんも私とどう接していいのか、わからずにいるようだった。嫌いじゃなかった。それどころか、気さくでとてもいい人だと思う。
「その人に心を許してもいいのよ」
母にそう言ってもらったが、私の心は汚れているし、実際、ちとせさんに冷たく当たったり、避けたりしたことも何度もあった。
このままじゃいけないというのはわかりきっている。あれこれ考えるけれども、そんなに簡単なものじゃない。大人になりたいと思いつつも、私は子供のままだった。胸の辺りに手を当て、心の色を想った。それは川の流れを濁らすほど、どす黒いのかもしれない。
「ふうかちゃんも、食べよう」
二人が結婚して丸一年目のお正月、商店街で振る舞われたお餅をちとせさんはもらってきた。
ちょうど父も帰ってきたので、私も部屋から出てきて、炬燵に足を入れた。
つきたてのお餅はずんぐりとしたラーメン鉢の中に無造作に収められていた。
「まだ温かいよ」
ちとせさんが千切って、丸め、お皿の上に並べた。それにきな粉をまぶしていく。
父が一つ摘まんだ。その様子に既視感を覚えつつ、私も口に入れる。
甘く、温かい。それが喉の奥をするりと落ちていく。父の夢の中で過ごした、母とのひとときがありありと思い出された。
私を抱き締め、名前を呼びながら、何度も頭を撫でてくれた。
「……お母さん」
何気なく、私はそう呟いてしまっていた。
あ、と口を押さえて顔を上げると、ちとせさんの視線とぶつかった。まるで時間が止まったかのように、ちとせさんは目を見開いたままだ。
ちょっと待って、そういう意味じゃない、と言いかけたけど、もう遅かった。ちとせさんの瞳には見る間に涙が溢れてきたからだ。
「……ふうかちゃん」
ちとせさんはそう囁いて、静かに両手を広げた。その手幅は広すぎず、狭すぎず、作為的でなく、どこか遠慮がちに見えた。
勝手に傾いていく重心に抗えなかった。
ちとせさんの両手の間にすぽっと嵌まり込んでから、心が遅れてついていった。肩に顎をのせ、きな粉で汚れた手を背中に回す。柔らかさと温かさに包まれると、私の目からも涙が出てきた。
「ごめんなさい……」
わんわんと声を上げて、二人で泣き出した。
おろおろとする父を尻目に、ちとせさんにきつくしがみついた。
抱き締め返されるその腕の中で、同時に母のことを想った。
「……ごめんなさい」
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