好きな人いなくなったからいる人好きになったわけじゃないことはない
silent4話見ました。
リアタイで見ようと思った先週の木曜日。仕事終わって1週間を待ちわび、silentを観れる喜びを胸に震える指でテレビのリモコンの電源ボタンをギュッと押し込んだら、野球中継が延長しててsilentもそのせいで遅れて放送することになってた。逆転ホームランでどっちのチームかが劇的勝利を上げてる映像が流れてるのに私の心は落ち込んでた。
明日も仕事がある私にとっては夜更かしする選択肢を選べずリアタイを諦めた。暴力的な睡魔に身を任せ、後日TVerで見ることになった。
土曜日の夕食後のスタバ。
1人席でスマホを片手にTVerでsilent4話を開いた。もう一方の片手にはコーヒーを。
なんだろう、スタバでみたからなのか、スタバの周りの音、お客さんの声、店員の声、BGMが聞こえる中、silentの視聴はより一層集中力を増して映像に引き込まれるように見入ってしまった。
今日のnoteの記事タイトルの言葉が全てというか、感想というか。心に刺さりすぎた。
出会いがないと言って作った出会いで出会った人は「いる人好きになった」というジレンマ。これは理屈として理解している。世の中の大人の人は大抵そういう人生だ。
私はこの学びを過去にバチェラーだったり、バチェロレッテを見て恋愛に絶望していて、「真実の愛」ってのは自分の中で折り合いをつけることで進めなければならないものだという学びをしてきた。だけど、silentは違う。好きな人と恋愛する繊細な部分を伝えてくれる。
こっから感想はドラマの内容なんだけれども。
silentの湊斗くんが紬と付き合ったのは「いる人好きになった」ではない。
「好きな人を好きになった」が湊斗くん。
でも、「いる人好きになった」が紬。
紬は想くんのことが「好き」で「好きな人」ってことなんだよね。
これってすっごく状況的に切ないよね。
だから、湊斗くんは悟ってて、想と紬の両方が幸せになってる状態が正しいと判断した。
私は湊斗くんの気持ちがすごくすごくわかる。「いる人好きになった」人の「好き」は本当に「好きになった」人の「好き」と違うということに気づいてるんだよね。
自分の好きと相手の好きは違う。わかる。
紬は「好きな人いなくなったから、いる人好きになったわけじゃない」って言ってるけど本当に心の声は残酷にも「いる人好きになった」だったんだよね。言葉じゃない、表情、行動、滲み出る感情が答え。
湊斗くんのね、想くんがいるから自分の好きな人を譲ったと思ってる多くの視聴者は随分と大人な学びを進めて世間の正しさにたどり着いたからなんだよ。
私もその学びがあるから湊斗くんは紬を譲っちゃいけないと思うし、でも湊斗くんの「好き」の度合いに気づいたから紬と別れる振る舞いにも納得している。むしろ共感すら覚える。
恋愛ってどれも正解なんだろうけど私にとってsilentが繰り広げる恋愛は自分の心の琴線に触れる。
それって本当の自分なんじゃないかなって少し最近思えてきて、私自身を理解し始めていてちょっと嬉しくなってる。
silent見るたびに私は私として自覚していく。
もっと世間の正しさじゃない真実を知りたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?