漫才とHIPHOPと、キリスト教
最近、アツい。
全てを売り払い、
長い下積み時代。
あがいてもあがいてもステージに立ち続ける。
昔から応援してきたわけでも課金したわけでもなんでもないのに、最近、芸人やラッパーの勝利する姿を見て報われてよかったなあ・・よかったなあ・・と思う自分がいた。
下積み時代の長いアイドルを応援するファンの気持ちが少しだけわかる気がする。
そして、
日本一、世界一になって実力を公の場で示したにも関わらず、漫才じゃないHIPHOPじゃないと言われる現状を見て、イエスキリストを思い出した。
地元イスラエルからすると完全に異邦の地・日本。の教科書にさえも記録される世界的な人物。
彼が話した言葉が、2000年経った今でも人々の間に残り続け、世界中の音楽に、映画に、本に、科学に影響を与えるようになった。
パソコンもスマホもなんにもない当時からしたら革新的であろうことを話す人物を間近に見たとき。ポケベルもリーマンショックも知らない人々はどう感じたか。
聞いた人々が言葉に感動し共感し、ハイセンスなプロデューサーが提供した賛美歌を有名アーティストが歌い、著名な画家がインスパイアを受けて描いた絵画が高額で出回った、とかそんなことは一切なかった。
リアルタイムで賞賛を得るよりも、悪口で刺されるほうが多かった。
律法の有識者たちにちくちく攻撃され続け、ついにはおもいきりバッシングを受けて、多くの人々の前で痛み苦痛を受け、十字架につけられる最期となった。
新しく、よりよいものがきたとき、それまでの過去を持っている人の心には、反対する心が生まれた。
あれ?もしかして日本の現代社会、2000年前とやってること変わらないのでは。
きっと細かいニュアンス理由背景はちがうものの
時代も国も文化もちがうのに同じことやってる。
でもそして、時代が変わる時、進む時は、みんなこういうもんなのかも、とおもった。
中学時代を思い出す。
1年から2年に上がる。
部活に1年生が入ってくる。
そのとき、自分は新人を歓迎していたか?いなかった。
後輩の方がすごかったらどうしよう。
先輩なのになめられたら、うまくできなかったらどうしよう。
正直、時代が進む、知らないものが参加してくるってこわい。
怖いけれども受け入れて一緒に進まないといけない。
自分の方ができていないとまずいなんて心を捨てて、1年生と一緒にがんばらないといけない。
大体のことには定義がある。
このジャンルはこういうジャンル。
今の自分はこういう自分。
確固たるものを持つ時に安心するけれど、
その定義で自分自身を閉じ込めることもある。
それで、わたしの中のいつのまにか存在している定義も壊しながら進むとき、もっと面白くなりそうだなーって感じたのだ。