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自作詩自解の蟻地獄----ああ 自壊!

これは昔パソコン通信時代の『現代詩フォーラム』(@nifty)という集まりに投稿したものです。

 Highway 99 Revisited

鏡は
世界から受け取った光を記憶すると
やがて物語にして差し返す

ある日 一匹のヒキガエルが
Dr.ホリデイの診察室の鏡のなかに忍び込むと
たちまち街中の鏡が曇ってしまった

昼下がりの街路を
自転車に乗ったロートレアモン伯爵の
歯の隙間から漏れだした
雷鳴が轟き渡り

リバティ・バランスに射たれた男 が
義眼に映るカラスを消しゴムで消し
ながら棺桶に入ろうとする ちょうどそのとき

床屋のオヤジが剃刀を覗き込んだビリイ・ザ・キッドの
瞼を横に切り裂いた

港のシネマでは
自分の顔を探しにスクリーンを抜け出たスタアたちが
にわか探偵になって拡大鏡をしゃぶりながら
観客席を這いずりまわり
食いっぱぐれた批評家たちは
マッチ遊びで暇つぶし

ひとさしゆびに火がついて
やがてシネマは燃え上がる・・・

踊り狂う白雪姫と
椅子取りゲームに興じる七人のこびとたち

それを見てナルキッソスは
片手で拍手する

みんな 好きなことを
好きなように やるんだよ
 
そうだ 雨が上がったら
出生証明書を受け取りにいこう
お手数ですが 切符を拝見。
おや あなたもお急ぎですか?
ナイトキャップを被ったハンプティが
追憶の栓抜きを持って
手招きする

虹の彼方の
 
ハイウェイ99 へと

(初出:1998/09/28「現代詩フォーラム」15番会議室{SHIMIRIN's ROOM}【詩合わせ】)

まず題名の“Highway 99 Revisited”については、いうまでもなくボブ・ディランの傑作アルバム“Highway 61 Revisited”からのいただき。
というより、この詩全体がそもそも、ディラン風のをひとつ書いてみよう、という意図やし。

ボブ・ディランというひとが詩人として、どの程度まじめに議論されているのか、ぼくは知らないけれど、ぼくにとってはとても重要な詩人だ。
ぼくがディランをいちばん熱心に聞いていたのは、70年代のなかば、ちょうどディランが“Planet Waves”“Blood On The Tracks”“Desire”といったスゴイ作品を連発していたころで、60年代なかばの “Highway 61 Revisited”や“Blonde On Blonde”などでロック・ミュージックの可能性を飛躍的に押し広げたころに次ぐ、まさにディランの「黄金期」と言っていい時期だった。

  鏡は
  世界から受け取った光を記憶すると
  やがて物語にして差し返す

というのは、コクトーの

    わたしたちにわたしたちの姿を送り返す前に
    鏡は大いに熟考する(reflechir)だろう
    

映画『詩人の血』より

から(*注:フランス語の reflechir には<よく考える>という意味とともに<反射する>という意味もあるそうです)の発想で、鏡というのはむかしから詩人たちに多くのインスピレーションをあたえてるけど、たぶんいちばん身近な「もうひとりのじぶん」「もうひとつの世界」の視覚化なんやろうな。コクトーの詩のようにコトバの二重性の象徴でもあるし。
ぼくがおもしろいと思うのは、鏡にうつるのがいつも「裏返された」自己像である、ということやね。そういうことからコトバというのも結局、世界を裏返してしまうのかな、たとえどんな精密な描写でも、とか思ったりする。

  ある日 一匹のヒキガエルが
  Dr.ホリデイの診察室の鏡のなかに忍び込むと
  たちまち街中の鏡が曇ってしまった

なんでヒキガエルかというと、おとぎ話でおなじみのキャラだし、『マルドロールの歌』の「ぼくの左の腋の下には、蟇(がま)の一家が巣をつくっていて・・・・・・、奴はつぎには君たちの脳髄のなかに入りこむことだってできるのだ」が思いうかんだ。脳髄に入った蟇が人間の記憶を食べてしまったらどうなるかな、と思って。ああ、歴史が物語に変わるんだ、と。鏡が曇るとき夢がはじまる。
Dr.ホリデイは西部劇でおなじみドグ・ホリデイ。西部劇の撃ち合いシーンでは鏡が重要な小道具になったりする。

Copper Canyon(1950)

  昼下がりの街路を
  自転車に乗ったロートレアモン伯爵の
  歯の隙間から漏れだした雷鳴
  が轟き渡り
  
  
ぼくの文学的記憶と映画的記憶が交錯してきて、西部劇へのノスタルジー映画『明日に向かって撃て!』のポール・ニューマンの自転車曲乗りシーンにロートレアモンが割り込んできたり。ロートレアモンが自転車に乗ってる、ていうのもなんだかおかしい気がしたし、雷鳴が歯の隙間からもれる、というのも滑稽さをねらってみました。ここは、ディランの“Idiot Wind”の、

    愚かな風がいつもきみが歯をうごかすたびに吹く

のパロディも意識してる。

  リバティ・バランスに射たれた男 が
  義眼に映るカラスを消しゴムで消し
  ながら棺桶に入ろうとする ちょうどそのとき

  床屋のオヤジが剃刀を覗き込んだビリイ・ザ・キッドの
  瞼を横に切り裂いた

「リバティ・バランスに射たれた男」はジョン・フォード監督の『リバティ・バランスを射った男』という名作があって、若き頃、無法者バランスを決闘で倒したヒーローとしてジェームス・ステュアートは後に新聞記者の取材をうける。
そのとき、ステュアートは西部の名士になっていて、その若き頃の武勇伝を聴きに来たわけ。
しかし、じつはバランスを射ったのはステュアートではなく、ほんとは名もない孤独なガンマンであるジョン・ウェインだった。
ステュアートは正直にそのことをうちあけて、どうだい、がっかりしたかい?そのとおりに書いてもいいよ、というようなことを言う。しかし、記者は首をふって、そこで映画史上に残る名セリフを吐く。

『ここは西部です。伝説が真実となったときには、伝説を印刷すべきです・・・・・・』

ところで、ふと思うのは「リバティ・バランスを射った男」は伝説として残る。
バランス自身も敵役として語り伝えられる。
しかし、無法者バランスに殺されたであろう、おそらく、多くの無名のひとたちは忘れられたままではないか?ということで、「リバティ・バランスに射たれた男」たちは、じぶん自身で棺桶に収まるのです。

『リバティ・バランスを射った男』(The Man Who Shot Liberty Valance 1962)

ディランはビリイ・ザ・キッドの伝記映画『ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯』(サム・ペキンパー監督)に出演し、主題歌“Kockin' On Heaven's Door”をヒットさせている。

    見るために両瞼をふかく裂かむとす剃刀の刃に地平をうつし     

という寺山修司の歌は、『マルドロールの歌』の、

    一本の針でおまえの瞼を縫いあわせ、世界の風景をうばい去り・・・・・・

を、ひっくり返したようなフレーズやけど、ブニュエル=ダリの『アンダルシアの犬』の有名な冒頭シーンとも混ぜ合わせているんやろうな。

『アンダルシアの犬』(Un Chien Andalou 1929)

  港のシネマでは
  自分の顔を探しにスクリーンを抜け出たスタアたちが
  にわか探偵になって拡大鏡をしゃぶりながら
  観客席を這いずりまわり
  食いっぱぐれた批評家たちは
  マッチ遊びで暇つぶし

  ひとさしゆびに火がついて
  やがてシネマは燃え上がる・・・

ここで“スタア”というのは近頃のタレント俳優のことではなく、モンローとかボギーとか、あるいはチャップリンとか、万人が自己を投影できる巨大に拡大された虚構である“スタア”のこと。むかしのフィルムは可燃性だから、よく燃えたそうだ。

  踊り狂う白雪姫と
  椅子取りゲームに興じる七人のこびとたち

  それを見てナルキッソスは
  片手で拍手する

  みんな 好きなことを
  好きなように やるんだよ

「批評」っていうのは、椅子取りゲームみたいだなあ、と思うことがときどきある。ところで詩人たちよ、なんでみんな椅子に座りたがるのか?

    片手で拍手する

というのは、ディランの“We Better Talk This Over”

    でもそれはとてもおこりそうにない
    片手で拍手するようなものさ

からの引用。しかし、江戸時代の禅の高僧、白隠禅師がつくった公案(問答)に「隻手(せきしゅ)の音声(おんじょう)」というのがあって、これは「片手の音を聞けるか?」という意味だが、有名な公案なので禅にも興味があるディランは知っていたのかもしれない。

  そうだ 雨が上がったら
  出生証明書を受け取りにいこう
  お手数ですが 切符を拝見。
  おや あなたもお急ぎですか?

記憶を失ったひとたちが物語としてのじぶんの過去をつくりにゆこう、といい始める。
「雨」はなんやろう?無意識を暗示してるんかなあ?じぶんでもわからん。雨が上がったら、虹がでたぞ。消えないうちに急いで出かけなければ。

  ナイトキャップを被ったハンプティが
  追憶の栓抜きを持って
  手招きする

  虹の彼方の

  ハイウェイ99 へと

ハンプティはどこまでがアタマでどこからが胴体なのか。その彼がナイトキャップをかぶってる、というか着ている。これは夢とか無意識へのいざないだろう。彼がすべての過去の封印をとく。そこ、その場所が“追憶のハイウェイ99”というわけ。

   *   *   *   *   *   *   *   *   

以上、なぜかフォーラム内で忌み嫌われている「自作詩自解」というのをやってみました。【赤の廊下】などでも「自作の詩の解説はするべきではない・・・・・・」といった意見が主流、というか暗黙の了解みたい。なんでやろー。ぼくはいつもやってるけどなー。自作自解。ただ、発表しないだけで・・・・・・。

作者が解説すると読むひとのたのしみがへる、と思ってるからかなあ。でも、ぼくはそんなことないと思うな。
なぜなら、作者だかといってすべて説明できるわけじゃないから。ぜったいに説明できない部分がでてくる。そして、そんなとこがおもしろいとこだったりする。だから、そういう部分を意識化するためにも説明できる部分に関しては、できうるかぎり明瞭に説明するべきではないだろか。

じつはこの『Highway 99 Revisited』という詩は、ぼくの詩のなかでもそうとう意識的に「造られた」詩である。去年の【詩合わせ】に間に合わせるために、でっちあげたような詩で、ほんとうは【詩合わせ】のなかで「自作自解」をやって「詩、ってこんなふうに<つくれる>もんとちがいますか?」とやるつもりやったけど、できた詩がいいものなら、それもカッコイイけど、この程度の作品だったのではずかしいからヤメタ。
でも、そんなふうに「造られた」詩のなかにでも、なぜかじぶんにも意味不明のフレーズがまぎれこんできたりするからオモシロイ。

詩を書くということは、鏡を通り抜けてあちら側の世界にいってしまった人間が、帰ってきてから鏡の向こうの世界のレポートを書くようなことだ、とすれば、自作について語ることは鏡にうつった「裏返し」のじぶんをハサミで切り抜くようなものかなあ。
でも、それはそれでオモシロイと思う。

・・・・・・と、ここまで書いてやっと気づいた。みんなが自作自解を避けるのは、自作についてこんなふうにながながとしゃべることが、みんな行儀が悪いとおもってるからではないか!すると、ぼくは、ああ、なんという恥知らず!ああ、自壊!

(1999/04/19 2:37)


補足。
ひとつ重要なエピソードを書きもらしていました。
なんの本で読んだかわすれてしまったけれど、ビリイ・ザ・キッドは「左きき」だったのだが、彼の人相書きをつくるときに使われた写真(それが彼が銃をかま えている写真だったのか、あるいは、いままさに銃を抜こうとしているところの写真だったのかは忘れた)が、なんの手違いか表裏がまちがってプリントされた もので、そのために人相書きのビリイは「右きき」になってしまった。つまり「裏返された」ビリイ・ザ・キッドが西部の町中に貼られたというわけです。 
 (1999/04/20 2:41)

  *   *   *   *   *   *   *   *  

以下は上の投稿に対して感想を頂いて書いた返信です


Nさん、Kさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。

眼高手低、というコトバがありますけど、ほとんどの場合ひとは何かを創り出す能力よりも何かを批評する能力の方がすぐれているといいますよね。そして、情けないことはその批評能力がじぶんの作品に関しては盲目になってしまうことです。

どこかで聞いたことなんですが、「こいつはオレよりずいぶん下手だなあ」と思う作品でじぶんと同レベル。「いい勝負だな」と思う相手ならじぶんより一段も二段も上。「こいつはひょっとしてオレの書くものよりいいんではないだろうか?」と思うような相手はじつはじぶんよりもはるか先を行っている。そのくらいに考えて、はじめてじぶんの作品を冷静に見れるそうです。

  そう書いた
  舌足らずのその言葉が
  私の何にふさわしかつたというのか
  書き得ぬものは知つている
  書き得たものは知らない
                (谷川俊太郎の『鳥羽 5』)

「書き得ぬもの」の豊穣さにくらべて「書き得たもの」はあまりに貧弱である、自作自解をしているとだんだんとそのことのいいわけのようになってきたりしてしまうのを知っているから、ナイーブな作者は自作解説をイヤがるのかなあ、と思ったりします。

ただ、それとはべつに自作自解を一種の「ネタばらし」のように考えて禁じ手にしているひともいるように思います。しかし、ネタをばらしたからといっておもしろみが半減するような作品は、最初からそれだけのおもしろさしかないので、たとえばすぐれた手品師ならだれでもタネをしっているような出し物でも、その手つきのあざやかさと演出の巧みさで観客を魅了してみせます。

謎、というのは詩の魅力のひとつですけど、それは作者本人にとっても謎である謎のことで、作者にはわかってるんだけど読者には隠されていてわからない、というような謎はデパートのおもちゃ売場の手品コーナーに陳列されているパーティーの余興用の謎ですね。
もちろん、それはそれで楽しくていいことだと思うんですが、いつまでもそればっかりというナンカイ詩はちょっとツライです。
そういうニセ謎はさっさとばらしてしまって、それでも残った謎を追っていったほうが深いところまでいけるんじゃないかな、と思っています。

もうひとつぼくの自作自解には性格的なものもあると思います。
なんか後ろ向きというか、じぶんのやり得たことを振り返って確認しながらでないとつぎに進めないところがあります。
けっきょくじぶんに自信がない。この詩を書き終えたらつぎは書けないかもしれん、というオソレがあるので、できるだけ無意識的な部分はへらしたいわけです。まあ、最終的には無意識からのイメージがやっぱり大事なんですけど、それは核の部分だけにして周辺はなるたけ意識的につくりたい。

ぼくの書くものにやたら引用が多いのも、他人のコトバを周辺部にばらまくことで、それがじぶんの核の部分とどう反応するかということを観察してじぶんの位置を測っているようなところもあったりするのだと思います。

(1999/05/04 19:06)

参考リンク
「田園に死す」寺山修司著『寺山修司全詩歌句』
「見るために両瞼をふかく裂かむとす剃刀の刃に地平をうつし」

『マルドロールの歌 新装改訂版』ロートレアモン 著, 栗田勇 訳
「一本の針でおまえの瞼を縫いあわせ、世界の風景をうばい去り、自分の途を見出すこともできなくしちまうかもしれぬ。だからって、おまえの道案内をぼくがするわけじゃないよ。」
シナリオ「詩人の血」コクトー著 『コクトー全集8』


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