儀礼的無関心 〜アベックたちのちんちんかもかも〜

 昨日の記事で宣言した通り、今日はガストで書見をしておりました。いつも通りモーニングのセットを頼み、トロピカルティーを飲みながらトロピカルな気分に浸っておりましたところ、通路を挟んだ横の席に一対のアベックが腰を下ろしました。

 文献を読み漁る合間にちら、と彼らを横目に一瞥しますと、二人揃ってレポートなんか書いていらっしゃいまして、微笑ましい限りでございます。これからの日本社会を担う若人よ、勉学に邁進したまえ、と心の中で彼らを鼓舞いたしました。

 火曜日の日替わりランチのコロッケはキャベツから出た水で少しべちょべちょしていました。でもそのふやけた部分とサクサクの衣が残っている部分のサクふやハーモニーも捨てたものではありません。

 蒸気機関のようにけたたましいコーヒーマシンに食後のコーヒーを抽出させ、カップから立ち昇る馥郁たる蒸気を鼻の穴いっぱいに横溢させながら「さて、午後も頑張りましょう」と席へ戻ってまいりました時です。私は思わず己が目を疑ってしまいました。先ほどまで対になってちょこんと座っていたアベックどもが、片側の席で仲睦まじくYouTubeを観ているのです。男は女にヘッドロックでもかけてしまうかのように頭を抱えて髪をまさぐっています。おおかた女が頭皮に飼っている蚤でも取っているのでしょう。

 私は思わず気分が悪くなってしまいました。書見なんぞ手に付いたものではありません。頭の中には口に出すのも憚られるような憎悪の言葉がふわふわと浮かんできます。

 彼らは対岸で一人業腹な私なんか終ぞ気にもとめず、追い打ちでもかけるように女は男の太ももへ頭を埋めました。さぞかしクサいでしょうに、ご苦労なものです。何と淫猥な光景でしょうか。このように人目も憚らず破廉恥な行為に勤しむ徒輩は世間にとって不倶戴天の敵であります。風紀紊乱もいい加減にしておくんなまし。

 とはいえ、私はあのアベックどもからの直接の迷惑を被ったわけではありません。それなのに、なぜ私は忿懣やるかたないのでしょう。

 ここで私はいつか習った、「儀礼的無関心」という理念を想起いたしました。これは、公共空間、つまりは誰でも自由に利用できる空間においては、みな他人に無関心であることを装っている、というものです。しかし、この無関心はあくまで「装う」ものですので、本当に無関心なわけではありません。相手に対し、「私はあなたに特別な好奇心は持っていなくてよ」という態度を示すのです。

 例を示します。あなたがガストで食事をしていると、隣の席へ客がやってきます。その時あなたは、その客を一瞥しますが、相手が知人では無いことを確認したあとはなるべくそちらに関心がないフリをするでしょう。いくら雲鬢たなびく絶世の美女であろうと、ジロジロと舐め回すように視線を送っていますと、「あらこの叔父様、出歯亀でいらっしゃるのねぇ」と美女の機嫌を害してしまいます。他人に対して無関心な態度をとることで、面倒なことに巻き込まれることも少なくなります。

 儀礼的無関心があってこそ、人がわんさか溢れる都市空間の中でも知らぬ人同士が互いに干渉せずに自由でいられるのです。

 それが今回のアベックどもときたら本当に関心が欠けている状態なのです。隣の席で勉学に励む私という存在への関心がないがため、彼らの関心は彼らの中で完結してしまうのです。そして二人は二人だけの猥褻世界へとトリップしていきます。真横で突然ちんちんかもかもされますと、こちらはひどく疎外感を覚えるものであります。

 このような儀礼的無関心の欠如が私に対して間接的な苦しみを与えるのであり、直接的な迷惑がなくても立派な迷惑行為が成立いたします。

 というわけでガストという聖域を土足で踏みにじられた私は、今日の研究も捗々しくなく、暗澹たる心持ちがいたします。

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