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南米通信 3 シートラウト、そしてドラード (フライの雑誌 No.44 1998年初冬号掲載)

■一九九八年三月一二日
 今、プンタ・アレナスという街にいます。明日、ここからフェリーに乗ってフエゴ島へ行きます。前にフエゴ島に行ってから九年。きっと「二度と来れない」と思っていました。しかし、それと同じぐらい「もう一度来てやる」と思ってました。結局ぼくは来ました。ただし九年という時間が必要でした。本当に必要だったのかはわかりませんが、それだけの時間が過ぎたわけです。
 この九年の間にフエゴ島はずいぶん変わったという話を聞きます。今やシートラウトの川としては世界一として知られるようになったリオ・グランデ。釣り場に行くには私有地の大農場を通らなくてはなりませんが、今やその通行料は一五〇ドルとも二〇〇ドルとも聞きます。リオ・グランデだけでなく主だった河川の周辺の私有地は全て通行料をとるという話。世知辛い世の中になったものです。
 でも変わったというのなら、どんなに変わったのか見てみたい。
 そして自分はこの九年間に何か変わったのか。確かに多少の処世術は身につけたかも知れません。でも結局「変えることのできない自分」だったから、今ここにいると思いたい。
 明日はぼくにとっての夢の地フエゴ島です。

■一九九八年三月一五日
 バラシ、バラシ、バラシ。もうバラシまくってます。
 三月一三日にリオ・グランデに到着した後、キウイの二人と別れ、友人のツテを頼ってデルガードという人の家に行きました。その友人の名前を出し、釣りに来たと言うと、大歓待を受けました。そのまま居候。デルガードも彼の家族も涙が出るくらいいい人です。同じ敷地内にお祖父さん夫婦からやしゃ孫で住んでいます。ご飯はみんないつも一緒。ぼくも一緒に食べてます。
 そして、夢にまで見たリオ・グランデへ行きました。リオ・グランデの主なポイントには、高い通行料を払って私有地を通って入るか、特別なコネクションがなければ入れないらしいのです。その時はたまたま川の周辺の大農場のオーナーのフェルナンドという人がブエノス・アイレスから釣りに来ていて、一緒に釣りをすることができました。デルガードと彼は友人なのです。とてもラッキーです。
 リオ・グランデにしては風が弱くいい日でした。釣り人はぼくを入れて四人です。みんなで一〇本は釣ったと思います。最大は90センチ、8キロの雄。で、でかい! 
 ぼくは何匹釣ったかと言うと、ゼロです。二匹かけました。一匹目は対岸のエグレの藻にもぐりこまれて、切られました。そして二匹目。フェルナンドがいちばんいいポイントを空けてくれました。
「投げた後、少し待って沈めてゆっくり、ゆっくり引くんだよ」
 彼の言葉の通りにしたとたん、ガツン! 一匹目は対岸に潜りこまれたのでやや強引にファイト(まさに戦い)しました。
 魚が大きいので、ここでは竿を持ったまま自分が川下へ下り、岸に引きずり上げるようにしてランディングします。なんとか浅瀬まで持ってきて、デルガードとフェルナンドがランディングを手伝うために魚に寄って行きました。「でかい! 雄だ!」とデルガードが叫んでます。その瞬間プチッ。魚の口が切れてフライが外れたのでした。
 久し振りです。魚をバラシてへたりこんだのは。本当に力が抜けてしまった。
デルガードが言います。「さっきの8キロより大きかったな。10キロだよ」。長年リオ・グランデで釣りをしてきた彼がそう言うのです。その後、人に会う度に「彼が10キロかけたんだけどさ…」と言います。もう何も言わ

んでくれ、デルガード。




■一九九八年四月三日
 ずいぶんといろいろなことがありました。確かにフエゴ島は変わった。
 九年前は、リオ・グランデの街に続く道はせいぜい10キロ程が舗装だったと思いますが、今や100キロ先のトルウィンという街の直前まで舗装に変わりました。
 そして街が変わったように釣りも変わりました。
 ぼくがリオ・グランデでフェルナンドと一緒に釣りができたのは、本当に運が良かったようです。
 今、リオ・グランデはごく一部を除き、街の人達は気軽に釣りをすることができません。そこで釣りをしているのは、外国人のお金持ちだけです。農場にとって場所と入場者の管理をするだけで大金が転がり込んでくるフィッシング・ビジネスは欠かせないものになっているようです。アルゼンチンの他の湖や川はすべて公共のものにもかかわらず、人気があるこのフエゴ島では川へ入る時に私有地での高価な通行料を徴収しているのです。公共の場ではあるけど「釣りをする権利」は別というような解釈の州法がある、という話でした。
 しかし遊魚者が減ったことによって、殺される魚の数が少なくなったという側面もあります。今でもアルゼンチンの釣り人は、釣った魚を殺して持って帰るのがふつうのようです。魚のサイズも以前より大きくなったと言います(今年の記録はなんと16キロです)。
 しかしシートラウトは面白い釣りだと思います。魚が大きい。かけるとまさに爆発するという感じです。豪快、大胆にして繊細。「黒っぽくって大きくて重いフライをおもいっきり沈めてゆっくり」というのが以前のセオリーでした。もちろんそのパターンも以前同様に効くことも多々あります。しかし街に二つのフライショップがある今では、小さなニンフからサーモンフライ、スティールヘッドフライまで使ったりします。それにあの魚はライズするのです。いかにも何かを捕食するような感じで。
 結局ぼくはリオ・グランデで六日釣りをしました。釣った魚は三匹だけ。スレでかかったのがその他二匹。バラシ二匹。
 一匹目は、いかにも何か補食しているという感じでライズしていて、12番の金玉プリンスニンフで釣りました。4キロの雌。あんな大きい鱒がヤマメ釣りに使ってもいいようなフライに反応したことがとても印象的でした。ただし、こんなにうまく事が運んだのはこの時だけです。
 それ以来、ぼくは小さめのフライを使うようになっていましたが、ライズなし、フライへの反応もなしという状況が続き、思いっきり方向転換して結んだのがラバーレッグ。サイズはロングシャンクのフックの4番ぐらいで、ウエイトを思いっきり巻き込んだヤツ。それに換えて沈めてゆっくり引くました。三投目に、ガツガツという手応えを感じました。5キロの雄でした。それが二匹目。
 三匹目はリオ・グランデで最後の日に釣り上げました。ときどきライズがあるものの全くアタリがなく、それでも粘って釣りました。何の拍子か分かりませんが、突然食らいついた、と感じでした。フライはショップで見たフライを模して作った12番の黒いウェットフライです。80センチを越えた8キロの雄でした。この魚には痺れました。それでもう今シーズンのフエゴ島は良しとしました。
 フエゴ島ではいろいろ複雑な思いがありました。
 明日、今度はブエノス・アイレスへ向かいます(ここから3300キロ!)。そこで大学時代の先輩と落ち合ってドラードを釣りに行きます。


■一九九八年四月七日
 ブエノス・アイレス行き断念。
 今、ブエノス・アイレスから1270キロ手前のシェラ・グランデという町にいます。
 四月四日にフエゴ島を出発して大陸に渡り、途中一日釣りをしたあと、ひたすら北上、ブエノス・アイレスを目指していたのですが、フエゴ島からブエノス・アイレスまでの距離3300キロ、本当に疲れてしまいました。3300キロなんてと、軽く考えていたのです。遠い、遠い、ひたすら遠いんです。睡魔と単調さとの闘い。あるのは苦痛だけ。このままチリに戻ろうか、と思っています。
 ドラードの釣り場はブエノス・アイレスからさらに700キロ北。さらにまだ確実ではないのですが、四月一五日にアメリカ人の友人がコジャイケに来ることになっていて、ドラードを釣ると二日でブエノスからチリのコジャイケまで戻らなくてはならないのです。絶対無理。三日はかかります。その友人とも何度も国際電話しましたが、連絡がつかず、ほとほと困りはてている状態。
 しかしまだドラード釣りのチャンスを逸したわけではありません。チリで買った車を売って金を作った後、できれば五月にバスでブエノス・アイレスに入り、そしてレンタカーを借りてドラードをやろうかと思い直しました。
 一人で一日1000キロ走るのは本当にキツイ。一日だけならまだしも、数日間ぶっ通しというのは不可能ということがよく分かりました。クソ! 少し敗北感です。
 疲れているせいか、少しめげ気味です。とにかくもう車を運転したくない。思考力も行動力も低下。さてどうしようか。
 今日はともかく奮発して二二ペソ(=二二USドル)のホテルに泊まってゆっくり休みます。サンドウィッチばかり食べていたので、今日は奮発してちゃんと飯を食います。

■一九九八年四月九日
 今、アルゼンチンのエスケルという街の近くのロス・アレルセス国立公園にいます。
 ローリング・ストーンズのブエノス・アイレス公演を散々悩んだ末に諦めたのがいけなかったのかもしれません。三月末から四月頭にかけて彼らはブエノス・アイレスにいたのです。ミック・ジャガーが五五才ですから今度こそ最後のワールドツアーでしょう。きっと一生後悔することになる、とは分かっていたのですが。ぼくはその時フエゴ島にいました。ブエノス・アイレスまでの往復航空券+チケットの値段とドラード釣りにかかる経費を秤にかけ、そしてコンサートを見に行く時間とフエゴ島での釣りの時間を秤にかけ、結局釣りをとったのです。そしてストーンズも見れず、ドラードも諦めざるを得なくなってしまいました。
 100メートル程離れた場所では家族連れのグループがロクでもない音楽を大音量でかけてはしゃいでいます。おかげで眠れない。

■一九九八年四月一六日
 昨日の夜にコジャイケに着きました。この街はもはや新鮮味なんてないけど、本当に落ちつきます。友人もいますし。
 いつもの安宿に。顔見知りになった宿主の温かい出迎え。いつもは庭にテントを張るんですけど、夜遅いこともあって今日は部屋に入りました。
 それから釣りガイドのニーノの家に行きました。フエゴ島のシートラウトの話をしたりして、飯を食わせてもらいました。
「じゃ、帰る」って言うと彼は「何処に行くんだ」と言います。つまりここに泊まればいいじゃないか、ってことなんです。
 コジャイケ周辺の釣り場は昨日で禁漁期に入りました。規則は実際にはそんなに守られてもいないようなんですが。誰に聞いても「問題ない」と。釣りしちゃおうかなって欲望との葛藤があります。せっかくコジャイケに着いたのに釣りができないなんて、ね。
 しかしここに戻って来た目的は「車を売ること」です。一月にこの街にいたとき、「この車売ります」って貼り紙を車に貼っていたら、その日に一人の男が欲しくてたまらないといった表情で近づいてきて、うわずった声で「い、いくらなんだい?」と言ってきました。エルクヘア・カディスの12番でガップリって感じです。ちょっと小細工して貼り紙には「日本製」と付け加えおきましたが。
 よっぽど欲しいらしく、その後ぼくが泊まっている宿に何度も来て、「買うからその売りますっていう貼り紙を剥がせ」なんて言うので、剥がしてやりました。その瞬間に購入者は彼に決まったのです。その彼と値段の交渉に入ります。
 しかし問題があります。最近チリ・ペソが下落気味。ぼくが車を買った時は一ドル=四一六ペソだったのですが、一月頃はなんと最高四七〇ペソまで落ち、その後一時持ち直して四三〇ぐらいで推移していたのですが、ここへ来て、再び四四〇ぐらいまで落ちてきているのです。だから交渉はドルで進めるつもりです。ここで釣りをしたい欲望に負ける前に、車を売った金を持ってブエノス・アイレスへ行く予定です。いったんは断念したドラード釣りをやるために。
 あと数日でコジャイケを去ります。早く動きたいような気持ちもあり、名残惜しいような気持ちでもあり。

■一九九八年四月二三日
 車はドルで話を進めたおかげで高く売れました。何度もぶつけてあまり愛着もなかったのですが、やはり手放す時になって少し寂しい気持ちになりました。あの車の中で何泊したことか。
 今日、コジャイケを出ました。ぼくはコジャイケという街が好きです。しかし禁漁になって釣りができないこの街はとても退屈でした。昔、知り合いのモンタナのガイドが、「住む場所はこのモンタナ以外考えられない。でも一年中ここにいなければいけないとなると、気が狂いそうになる」と言っていたのを思い出します。きっと釣りができない長い冬というのが耐えられない、ということなのでしょう。
 少しだけぼくもその心境が分かったような気がします。コジャイケから見える山々は昨日雪をかぶりました。紅葉は今が盛りですが、もう冬が始まっているのです。
 ぼくは都会が好きではありません。でも、大学も勤めていた会社も東京だったから、一〇年以上生活の中心は東京にあった。それで知らず知らずに都会の生活に慣れて、「田舎のコジャイケでの釣り抜きの長い冬は耐えられないだろうな」と思ったのかもしれません。なんかちょっと情けないけど。
 車を売ってコジャイケを去り、空港まで来たら、大きく長いため息でもつきたい気持ちになりました。ひとつ、何かが終わりました。
 ブエノス・アイレスにはサンチャゴを経由して行きます。しかしこのところアルゼンチンは天気が悪いらしいのです。とくに北部のドラードの釣り場に近い国境付近は大雨とのこと。ウーン。こんどドラードをやり逃がしたら、二度と釣るチャンスはないかも知れません。


■一九九八年五月三日
 ブエノス・アイレスから700キロぐらい北上したところに「イベラー湿原」という大湿原があります。そこにドラードを釣りに行きました。ブエノス・アイレス在住の大学時代の先輩住田さんと、同じくブエノス在住の彼の友人夫妻と行ってきました。夫妻はほとんど釣りは今回が初めてということでした。
 ドラード。ぼくにとってその魚を初めて知ったのは、開口健の『オーパ』です。文豪はドラドと言ったけれでも、もちろん文豪に敬意は払いつつ、ここでは現地名の正しい発音に近い「ドラード」にします。「ー」を入れると自然に「ラ」にアクセントがつき現地の発音に近くなります。
ドラード(金)という名前の通り、黄金色の鋭い歯を持った頭のでかい魚。かけるとジャンプを繰り返し釣り人を夢中にさせる魚。あの本を読んだ釣り師なら誰でも思うように、機会があれば釣りたいと思っていました。
 ベスト・シーズンは夏です。今はもう秋です。その上この一カ月間アルゼンチンは雨が降り続き、リオ・パラナ沿いの300キロ上流の街、コリエンテスの大洪水の模様がテレビに写っていました。
 住田さんに「リンコン・デル・ディアブロ」(悪魔の角)というローリング・ストーンズ的ネーミングの恐ろしい名前のドラード釣り用のロッジに電話してもらうと、最寄りの街メルセデスは冠水していないし道も分断されていない、ということでした。
 行きました。木曜の夜、ブエノス・アイレスを出たバスは615キロ離れたメルセデスに朝九時頃到着。そこでロッジから出迎えのランドローバーに乗り換え、約一時間でロッジに到着。驚きました。水はロッジの玄関まで来ていたのです。ロッジの門は半分水の中に沈んでいました。水位はふだんより2メートル高く、七〇年だか八〇年降りの大水だそうです。
 昼食後、さっそく増水により玄関まで横付けされたアルミボート二艘に乗り、湿原に繰り出しました。何度も来ている住田さんもあまりの増水に驚いていました。ぼくの印象は「でっかい印旛沼」です。葦原を切り開いて作った2キロ程の水路を抜けると大きな湖に出ます。この大湿原はこうしたいくつかの湖と、湿原の中を網の目のように張りめぐらされた水路で成っていて、ドラードのポイントは水路です。水鳥がいます。巨大なねずみカルピンチョ(カピバラ)もいます。ワニもいます。
 ただし水は濁っていなくて、流れもあります。ふつうドラードの釣り場は、濁ったコーヒー牛乳色の水域が一般的なのですが、ここは水が澄んでいて見釣りが可能ということでした。クリアウォーターでのドラード釣り。このロッジは数年前にオープンしたばかりで、「クリアウォーターでドラードが釣れる」住田さんのとっておきの場所なのです。ただ洪水の影響で見釣りが可能な程には澄んでいませんでした。住田さん曰く、平水なら底まで見えるそうです。さらに2メートルの増水で水域は途方もなく広がっており、魚も散っている、ということでした。
 到着した日の午後と次の日一日やって、ぼくは三匹のドラードを釣りました。最大で55センチ、2キロぐらいのちっちゃい奴でした。それでも8番ロッドがグイグイいいました。例によってでかいのをバラシしてます。65センチぐらいのをかけて、まだ取り込んでないのに、チャールズ・ブロンソン似のガイドが握手を求めてきたので握手に応えていると、二度目の派手なジャンプであっさりと外されました。
 なんたって『オーパ』の印象があるので、そんなのはとりたてて大きくもなく、すぐ釣れると思っていました。しかしすでに書いたように(こういうの言い訳って言うんです)条件が悪すぎた。その中でフライでキャッチできたということだけで感謝しないといけません。少なくともこれで「ドラード童貞」は捨てることができた訳です。しかし次回はもっといい季節に、もっとでかくて生きがいいのとお相手したいと思っています。ちなみにこのロッジのお客でフライで釣った最高記録は14キロとか。
 ともかく「うなぎ犬」みたいなうなぎを餌にして釣った夫妻も、フライの住田さんもぼくもみんなドラードを釣ることができたのでした。

■一九九八年五月五日
 ドラード釣りから帰ってからは住田さんのアパートに滞在して気儘にやってます。
 サンチャゴに比べるとブエノス・アイレスはもっと都会的です。都会が嫌いなんて言っておきながら、これが楽しい。何故かと言うとお姉ちゃんがチリよりきれいなんです! 一説によるとイタリア系が入っているからとか。
 南米のCで始まる国は美人が多いと言われます。つまりコスタリカ、コロンビア、チリ。誰が言ったのかは知りませんが、きっとアルゼンチンを見てないんでしょう。そう言えば友人が「チリが美人が多いなんて言うけどさ、やっぱアルゼンチンでしょう」と言っていたのを思い出します。「いやチリだって…」と思ったものですが、今や全く同感です。
 昨日、タンゴを見ました。九年前に来た時と同じ店「ヴィエッホ・アルマセン」というタンゴ・バーで。
 タンゴのダンスは男と女の関係の表現です。女性の方は深いスリットの入ったドレスで踊ります。そして男と女が足を絡め合って踊るのです。
 いやらしい、もう最高にいやらしい。服を着たままですが、服を脱いでいるよりもいやらしさを表現しているように思えます。
 タンゴはアルゼンチンのストリートで生まれたブルース、レゲエだと思います。タンゴはダンスだけではなく、バンドも歌も全て総称してタンゴです。
 九年前、ぼくはこの小さな観光劇場で、一人の女性の歌い手に心を奪われました。彼女は生ギター一本でステージに上がって来てタンゴを歌いました。最初の登場から、きれいな人だなと思っていたのですが、歌い始めた瞬間、いよいよその美しさに磨きがかかり、場内釘付けという感じでした。スペイン語というのはなんて美しい言葉なのだろう、とその時思いました。
 ひょっとしたらその人の歌に再び会えるかもしれない、という淡い期待がありました。しかしそれは叶わぬ望みに終わりました。ショー自体は十分楽しんだのですが。それでショーがはけてから、八九年にここでタンゴを見たんだけど、ギター一本で歌っていた女性を知らないか、と聞きました。何だか迷惑そうな顔をされながらも、名前が分かりました。ネリ・オマル。
 劇場の外で待っていた迎えの車(今回はツアーに参加した形だったので)の運転手にネリ・オマルのことをさらに聞いたところ、おそらく今はブエノスにいないのではないか、ということでした。
 タンゴは本国ではもはやそれほど盛んではないのです。しかし他国ではブームになったりして、つまりマーケット自体は外国にある。そこで有名なタンゴ歌手は外国で歌っているらしいのです。彼女ほどの力があるのならば、おそらくその可能性はあると思いました。セニョールにそう訊ねると「そうかも知れない」と言ってました。
 うーん。彼女はまだ歌を歌っているのでしょうか。どこにいるのでしょう。彼女の歌声をもう一度聴きたい。


■一九九八年六月四日
 サンチャゴからアメリカに向かう飛行機の中にいます。ドラードの後、サンチャゴに釣り道具、キャンプ道具一式を置き、ボリビア、ペルーを一か月程回ってきました。
 そして今日、南米を去ります。
 最近、友人から受け取ったEメールの中に「釣り人は心に傷があるから釣りに行く。しかし彼はそれを知らないでいる」という言葉を見つけました。開高健の本の中で似たような言葉を見たことがあり、それは「釣り人は、本人の自覚があるにしろ無いにしろ、心に大きな穴が空いていて、その穴を埋めに釣りに行く」というような内容であったと思います。
 そうなのかもしれないな、とも思います。
 どんなに幸せでも、幸せだからこそ、どんどん大きくなってゆく穴というのがあるのかもしれない。その穴を埋めにゆくために釣りに行くと、実はもっとその穴が大きくなっていったりして。釣れない。八方手を尽くしても、とことん釣れない。そんな時には、その穴にひゅっと風が吹き込んで。それでも釣り竿を持って流れに立てば、その穴が小さくなるような気がして、次の日も釣りに行く。釣れたら釣れたで穴が小さくなったような気になり、その感覚が忘れられずに、やっぱり次の日も釣りにゆく。 
 どっちにしろ、ぼくは楽しい時も辛い時も、幸せな時も不幸な時も普通な時も、幸も不幸もなくただ一切が過ぎてゆくとしても、やっぱり釣りに行くしかない。それ以外の時間の殺しかたが分からない。皆目わからない。
 二ヶ月前のフエゴ島の釣りを思い出してます。よく晴れた日の夕暮れの色に包み込まれる感覚が蘇ります。起伏が少なく大きな樹木も生えていないので、ほぼ360度地平線が見渡せます。沈んで行く太陽の色はオレンジ色からそして薄いパープル色に変化してゆき、空全体がその色に支配されてゆきます。昨日と今日と明日の境目が分からなくなります。それなりに努力をして、自分の意志で決めてそこまで行ったつもりだったけれども、その夕暮れの中ではそんな自分が本当に取るに足りないものに感じられます。自分がどこにいるのかわからなくなるような感覚、その風景に溶けて行きたくなる衝動を起こします。それは「死にたくなるような」色彩です。同時に「今、自分はここにいるんだ」という思いが湧き上ります。その思いがぼくに釣り竿を握らせます。
風が吹き抜けます。冷たい風が吹き抜けると体だけでなく心までが震え上がります。そんな所です。この旅はいつだって風が吹いていた気がします。でも、ぼくはまたそこに立ちたい。例えどんなに風が強く、寒く、アタリがない日でも、あの地にいた時、ぼくは風に向かえたのです。


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