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1984からの1Q84の再読とシンクロ、純愛のハードル

記事のタイトルに1Q84が並びすぎてしまいましたが、自分の再読シンクロのタイミングなので仕方なく、むしろ宿題を消化している気分なので、とにかく書いております

1Q84初読の時は、シンクロに凄まじくびっくりした作品です。
1Q84は2009年の5月に発売されました。
そのころは村上作品を再読をはじめた頃で、とりあえずどの本も図書館で借りて読んでいました。人気があった村上作品は、自分の思うようには借りる事ができず、図書館の棚で見つけた本を借りて読む、という事を繰り返していました。
ねじまき鳥までの長編は過去に読んでいましたが、それ以降は初読になりました。1Q84 が発売されている事は知っていたのですが、当時は急いで読むほどのファンの自覚もないので、400人(BOOK1)~200人(BOOK2)待ちの予約に驚きながら、先にBOOK2が届かないように時間差で予約を入れて、そのうちに回ってくる順番を待って手に取りました。どの本もだいたい半年くらい待って読んだと思います。
前日に図書館からお知らせのメールが来ていたので、仕事の面談に行った帰りに、図書館に寄って本を引き取るとその中にBOOK2があり、帰ってから読み始めました。
すると、天吾が牛河のビルが実際に存在しているのかを確かめるために、四ツ谷から麹町へ歩いてそのビルまで行く様子が描かれています。
まさに、その日に行ってきたのが、麹町のビルの中にある会社であり、四ツ谷駅から歩いてその会社に行きました。その面談の後にその会社で働いて、翌年3月に東日本大震災を経験し、ノルウェイの森の中で出てくるワタナベと直子が歩いた四ツ谷~駒込間を、会社のあった四ツ谷から住んでいた駒込まで歩くという事を体験したのでした。BOOK2は7月‐9月という設定でしたが、それは2010年7月の事で、11月にはノルウェイの森の映画が上映された年でした。

そんな風に、1Q84 のシンクロきっかけで働いた場所で、ノルウェイの森のシンクロにつながって、自分の中で大きな気づきがあり、揺さぶられるような思いをしたので、1Q84からもそれなりに感銘は受けたのですが、それはそれで終わったと思っていました。なので、今1Q84キャンペーンが始まり、ある意味そのために引っ越した?くらいの状況になるとは思ってもなかった事でした。

なぜこのように熱心に私を支え救おうとしてくれるのだろうか、と思うくらいシンクロやメッセージは溢れていました。
自信を失っていた私にとってはとてもうれしい事でした。
一気に自信を取り戻すというより、徐々に自信を取り戻していきました。
とはいえ、その方法が意外だったし、予定調和的で時系列などを考えると、念入りなシナリオがあるかのごとく思わされることだったし、シンクロのほとんどが村上春樹の作品だった事も興味深い事でした。
そこにはまだ把握しきれていない意味やまだこれから起こるシンクロさえあるような気がしています。
自分が見守られている事を実感したので、もしかしたら同じようにシンクロを通して導かれている人がいるかもしれないし、今後も深堀りしつつ発信していけたらよいのかなとは思うております。

 さて、1Q84を今あらためて再読してみて思った事です。
今回は1984を読んでから再読したので、それもおもしろかったです。
1984をベースにしたりモチーフにしたりその要素がたくさん出てくるので、1Q84を読んでから1984を読むのも、その逆もおもしろいと思います。
物語が4月から始まっている事や、ビッグブラザーのポスターの象徴はたぶんエッソの看板なのかなと思ったり、ウィンストンの母親の回想が、天吾の抱える幼少期の映像であったり、ウィンストンの仕事である記事の改変が天吾の小説の改稿であったり、ウィンストンの拷問が牛河の拷問であったりするのかなと思うし、青豆がジュリアであるなら、1984では別れてしまうふたりが、1Q84では結ばれるのかなとか。そういったエピソードの下地を発見するのも楽しいのですが、1984に書かれている思想についての表現などは人間そのものを考えさせられて、圧倒されました。ディストピアという設定ならではの人間模様が浮き彫りになって描かれている様子は、この本が名作である事は大納得で、あらゆる人たちが感服してきたのだろうなと思った1冊でした。もちろんだからこそ、この本をモチーフにしたのだと思いますが。

今、特に感染症流行後に読んでみると、以前読んだ時とは自分の印象に残る部分が違ってくる感じはあります。
主人公である二人がいわゆる二世である事は、二世がここまで話題になる時が来るとは思ってなかったと思いますが、オウム問題に向き合ってきたからこその設定だと思うし、今となっては予見的な気がしています。天吾の場合、父親がNHKの受信料の集金人という設定も、二世という問題が宗教だけの問題ではない事を象徴していると思います。
ふたりは二世としての息苦しさを抱えて生きてきたのですが、かえってその苦しみがふたりを結ぶきずなになったとしたら、それぞれが受ける苦しみをどのように生きるかというのは、それぞれにとっての課題であり、特権にもなる事で、それぞれ受けた者でしか得られないものに変換できる事なのだなと思います。私自身、自分に属した痛み、苦しみが多々あるわけですが、それがなければ今の自分はないと思うので、自分の痛み、苦しみというのはかけがえがない気がして、どう生きるかこの物語にはそのヒントがたくさんあるように思います。

ところで、ノルウェイの森の時も思ったのですが、これって確か純愛の物語だったんじゃなかったっけ? 純愛は時代と共に定義が変わってきたのでしょうか。ワタナベの恋愛も、直子に対するけなげな純愛に見せかけて、女遊びしたり、緑に恋したり、レイコとも関係をもって、最後は緑への純愛の形をとる。女遍歴がいろいろあったにも拘わらず、読後には不思議と純愛感が残る、、、というか、純愛ってそれぞれの貞操観念がどうであれ、一途な心があれば成立したんだっけ?とかとか思ったりしてました。

1984では、ウィンストンとジュリアもお互いの純愛を誓い合います。
たとえ自白のよって何を言わされようとも、人の中までは誰にも入れない。
本気で信じさせようとすることは誰にもできないと。
拷問にあってさえ、ウィンストンは自分がジュリアを裏切っていないと叫びますが、自分が生理的に受け付けられない恐怖を目の前にして、その拷問を自分ではなくジュリアに!と叫んでしまう。
ジュリアも後に同じような状況下で「自分ではなく誰々に!」と求めた事を吐露し、純愛が肉体的な苦しみには勝ち得なかった事を後にお互いに確認する事になりました。この、苦しみを自分ではなく身近な誰かに、という裏切り方が興味深く、ある知り合いの余命わずかな病気を患った男性が、「なぜ自分が病気になったんだ!なぜ妻じゃないんだ!」と言ったとの事を、その奥様から聞いた事を思い出しました。自分が受け止めきれない事を誰か他の人が代わるべきだと思うものなのかという、その時の違和感のようなものをふと思い出して、逆にちょっとリアルを感じました。

1Q84  では、小学生の頃の思い出をよすがに、天吾も青豆も特定の恋人も作らず、それぞれ性的な関係だけを他者と持ちながら生活しています。青豆は殺人も行っている殺人犯でもあり、天吾は小説の改稿をしたゴーストライターとして再会し、そこには燦然と輝く純愛という読後感が残るわけなのですが、、、
それぞれがよい大人なので、それぞれの人生に誰かの存在がある事は想定内なのだと思いますが、青豆の場合、自由奔放な性生活やこれまでの殺人を天吾に語る必要はないとして、もしずっと心に抱き続けた想い人がプロの殺し屋というのは、その事をもし天吾が知った時にドン引きしないのかな、というのは頭の片隅に残りました。理由はともあれ相手がプロの殺し屋で、直接数人を手にかけているわけで、法に裁かれなくとも、ここまでして出会った大事な人にドン引きされたら元も子もない話だなとは内心思いました。
久しぶりの再会で、青豆は天吾の事をざっくり知っていたものの、滑り台に座っている天吾の横に現れ、挨拶もなく勝手にポケットに手を入れたり、頭を持たれたりとか、同級生とのひさしぶりの再会にしては距離近すぎてやばい女だなとは思いつつ、純愛のハードルはそれぞれの中にあるわけで、このくらい運命的に出会えたらなんでも乗り越えられるのかもしれません。今回なんだかんだで再読してみて、いろいろ思わされる事は多岐にわたりてんこ盛りだったので、ちょっと絞って書いてみました。

写真はシルバーの80年代メルセデスを検索して探したのですが、(シルバーのベンツは見つからず)最近のベンツに見慣れていたので、そういえば昔のベンツこんな感じ!と改めて思いました。
青豆の思う神さまは、ベンツに乗って登場したのですが、そのシーンがまさに神さまぽくて泣けました。

ジャニスが歌う、
神さまにベンツねだる歌が頭によぎります。
彼女が神さまをLordと呼ぶところに、彼女にとって神さまは遠い存在ではないのだなと思わされます。
青豆のお方様も。

Oh Lord, won't you buy me a Mercedes Benz ?



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