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岡豊城跡へ

私の名前は 長宗我部 春近
長宗我部元親 公の子孫ではないのだけでど…

今日は国の史跡にも指定されている岡豊城跡へとスーパーカブを走らせた。
高知県南国市岡豊山に城が築かれた時期は不明らしいが15世紀ごろと考えられており、長宗我部氏が大高坂城(現在の高知城)に移転する1587・88年ごろまで居城として機能していたと考えられている。
まずは、歴史民俗資料館へ向かう。

左手の建物が歴史民俗資料館
右手が岡豊城跡

歴史民俗資料館は3階建てになっているようでまず外側の階段を登ってみるとそこには元親 公の銅像があるではないか!思わず手を合わせてしまう。


背面の階段を登ると二の段曲輪へつづく

一旦、資料館へ戻り、内覧することにした。そのまま2階から中へ入ると長宗我部 元親 公関連の資料スペースは有料(大人520円・小人420円)現在1階で展示されている河田小龍 展(令和6年11月1日~令和7年1月5日まで)も観覧可能。

岡豊城跡模型(手前が南)

上記模型は2階の無料スペースにある。3階も無料スペースになっていて、縄文時代から近代までの高知に関する歴史的な展示物が閲覧できる。サッと見た後、折角なので有料スペースも閲覧することにした。武具やら書状などが沢山展示されているが、撮影禁止のものが多かった印象だ。

資料館で得たお話によると、長宗我部 氏は秦 氏の末裔で、鎌倉初期に信濃国より移住し長岡郡の宗部郷を領地としたことから長宗我部と名乗ったとされている。ついでに香宗我部 氏は香美郡の宗部郷を領地としたことからである。

1508年 長宗我部 元秀(兼序・かねつぐ)元親のお爺さんは後ろ盾とする土佐守護 細川 氏の勢力減退により孤立、当時、津野、大平、吉良、本山、安芸、香宗我部、長宗我部などの有力家が割拠していたが、岡豊城は攻め落とされ、嫡男 千雄丸(国親・元親の父)は逃れ、元服まで土佐中村の一条房家に庇護された。その嫡男が元親でなのです。後に一条家を継いだ一条兼定は元親により豊後に追われます。戦国の世に生き残ることは本当に大変だなと感じました。

岡豊城からの移転先である大高坂城(高知城)図

現在の高知城に移転したのは1587、8年ごろらしいのですが、治水問題のせいだったのか数年で月の名所と言われる桂浜近くの浦戸城へ移転している。
浦戸城は現存しないが若宮八幡宮から近い。

詰と呼ばれる主郭から見た風景

私のイメージする天守閣とは違っていたのだろうけど、国分川の向こうに広がる高知平野の眺めは爽快だったに違いない。

1575年土佐の国を統一した元親が後に四国統一をほぼ統一したことは間違いないと思われる。ただ、完全に手中に収めたかどうかは怪しい説があるようだ。

四国の中で起こった合戦の数々は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった当時政治の中心にいた人たちと密接に関わっていたことは非常に興味を引かれた。連絡手段が文あるいは口頭のみであった時代、情報戦は重要であったことがうかがえる。当時もウソの情報があったわけで、四国統一に向け、私もあらためて身の引き締まる思いがした。

高知にも天下一品あるのですよ

とりあえず、昼食で天一制覇しました。

私の名前は 長宗我部 春近
長宗我部元親 公の子孫ではないのだけでど…


仕官そして研修①へつづく

賑やかし帯はこちら

いつもありがとうございます

では 素敵な1日を✨

この記事の続編です

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