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中村淳彦氏の底辺とは何を意味するのか?


中村淳彦氏と底辺


 「東京貧困女子」や「名前のない女たち」などの数々のヒット作を持ち、Voicyのパーソナリティでもあるノンフィクションライターの中村淳彦氏が、「自分は底辺である」と主張し、多くの共感を呼んでいる。結成された「チーム底辺」には、筆者を含め多くの人々が参加し、最近ではDiscord内でのコミュニケーションやオフ会などが活発に行われている。しかし、底辺の定義が通常とは異なるために、伊藤洋介氏からは、ビジネス底辺(底辺詐欺)ではないかと疑われている。

一般的な底辺の定義とは?


 日本語大辞典によると底辺とは、「物事の底の部分。特に、社会の下層部。」であり、デジタル大辞泉によると「組織などの基盤をなす部分や、社会の下層部分のたとえ。」とのことである。いずれも社会の下層部ということで共通しており、一般的な認識もこれと同様であろう。底辺に属する人々というのは、橘玲氏によるところの下級国民であり、荒川和久氏が伝える「低賃金」の人々であり、中村淳彦氏がノリノリで放送する際に連発する、彼らの喧嘩時の擬音である「ポカポカ、ポカポカ」の人達(心温まるポカポカではなく、喧嘩慣れしていない底辺人が殴り合いをするも、周りからはバネで動くポカポカゲームを連想することから由来すると想像)や、ホス狂いを含めた何らかの依存症の人々である。ここでは、これらの人々を中村氏の底辺との違いを明確にするために、「真の底辺」と定義する。

 中村淳彦氏の言う底辺を理解するために、底辺のもう一つの意味である、三角形の頂点に対する辺を用い、人口ピラミッドを図式化してみた(図1)。そうすると、底辺は一番下の層であり、上下を規定するものを金銭とすると最も理解しやすい。昭和の時代は1億総中流と呼ばれ、2の中間層に最も多くの人々が存在しており、会社に所属して勤勉に働けば、1へ行くことはできなくとも2の中の上の方に行くことはでき、それなりに幸せな生活を送ることができた。しかし、多くのモノで満たされた日本社会は、長い経済的停滞の時期を経過中であり、企業の業績も上がらず、かといって正社員を解雇する障壁が高いため、中村氏の属する団塊ジュニア世代から1流企業を中心に就職が困難となり、非正規雇用が増加した。それによって図1の2の中流から3の区分に属する人が増加することになり、1億総中流は過去のものとなった。

図1 お金を基準としたヒエラルキーを示す図


真の底辺と中村淳彦氏が言っている底辺は異なる


 中村氏は最近でも「中年婚活」という本を上梓し、上級国民の方と再婚もされ、図1の底辺と定義付けるには無理がある。では一体、なぜ中村氏自身は、「自分は底辺である」ということをくり返し言っているのであろうか?彼自身の放送では、北野唯我氏の「天才を殺す凡人 職場の人間関係に悩む、すべての人へ」を引用し、天才と凡人が底辺であると述べている。北野氏の論評は、書籍だけでなくネットでも閲覧できるので、できればその図を参照していただきたい。また、「チーム底辺」のメンバーが、Stand FMの「これからの学びの在り方を考えるホームエデュケーションチャンネル」で解説されているので、そちらも参照していただきたい。天才と凡人が底辺だとすると、「チーム底辺」の属性と「真の底辺」を分ける事が出来ないので、筆者は中村さんや「これからの学びの在り方を考えるホームエデュケーションチャンネル」さんとは異なるアプローチで底辺論を考えてみたい。

「チーム底辺」とはどのような存在なのか


「チーム底辺」は、中村氏と花總観音氏が結成していたチームである。中村氏がVoicyを始めた当初はフォロワーが少なく、Voicy内ではマイナー発信者であったが、Colaboに端を発する貧困問題、AV出演被害防止・救済法など、特に女性風俗に関する情報発信で徐々にフォロワーを増やし、2023年にはVoicy fesにも登壇し、様々なインフルエンサーとコラボレーションするトップインフルエンサーとなった。そのようなトップインフルエンサーになったにも関わらず、あくまでも謙虚に底辺を公言することから、その姿勢に賛同するフォローワーにより、「チーム底辺」に次々とフォローワーが参加し、専用のDiscordも作成され、活発な議論が繰り広げられる事態となり、今や社会現象である。「チーム底辺」のDiscordメンバーの主要構成員は、橘玲氏の言うところの上級国民の女性が大半を占めるとのことであり、先日はそのメンバーによるオフ会も開かれ、大変盛況であったとのことである。このような一般的には上級国民とされるメンバーで構成される「チーム底辺」であるが、何故このように急速にメンバーを増やし賛同されていったのだろうか?

中村淳彦氏という現象


 盛り上がりを見せる「チーム底辺」。これは一種の現象と考えて良いだろう。この現象を理解するために、筆者が主に聴いているVoicyパーソナリティを分類してみた(図2)。山口周氏が提唱するところの「意味がある」「役に立つ」で分類を試みたが、意味がないパーソナリティーの放送は聞いてないので分類ができなかった。そのため、これらパーソナリティーの特性を考慮し、薬-毒、論理-感情というマトリックスを用いると分類できそうであった(図2)。ここで右上の3人を薬と分類しているが、尾石氏と澤氏はプレミアムリスナー向けに、山口氏はnoteの山口周研究室でしっかり毒を発揮している。
 ここでの中村氏の分類は、堀江氏と同じ場所(毒-感覚)に分類される。両者に共通する言葉として、「危なっかしい」「言いにくいことを言う」「感情的になりやすい」などの特徴があり、敵も多いが愛されやすい。中村氏は、「ポカポカ」や「底辺底辺」「ハッピーハッピー」など時々ラップ調の意味不明放送をするように、論理というよりは感覚的である。中村氏は自分のことを、北野氏の分類で言うところの「天才」に分類している。それは異議がないと思われるが、天才は孤立しやすい。天才が孤立せずに社会に認知されるにはフォロワーが重要である。この天才がフォロワーによって現象となるのを分かりやすく解説したDerek Siversの「社会運動はどうやって起こすか」というTED動画が参考になるだろう。この動画にあるように、Voicyの中で変なことを発信する異端児であった中村氏に少しずつフォロワーが増え、今や現象となった。このフォロワー達が筆者を含む「チーム底辺」である。

図2 筆者が主に聞いている、Voicyパーソナリティーの分類(敬称略)


「チーム底辺」の合言葉に見る「チーム底辺」と「真の底辺」の違い


 「チーム底辺」の合言葉は、「いつも心に底辺を」である。「真の底辺」の人々が、この言葉を使用することは決してなく、むしろ「いつか底辺を脱出したい」と考えるか、底辺からの脱出の希望すら持っていないのではないが現状だろう。「チーム底辺」という現象をさらに理解するために、真の底辺への定義が必要と考え、(図1)の横軸を追加した、2x2のマトリックス図で図式化を試みた(図3)。2x2のマトリックス図では、相関しない、もしくは相関の乏しい二つの事象をx軸とy軸に記載することで、物事の理解を進めるものである。真の底辺を定義づける一つの軸が、金銭という定量化できるものというのは(図1)と同様であるが、貧しくとも幸せである人は存在する。今風に言うとミニマリストの人々である。そこで、必ずしも金銭とは関連しないもう一つの因子として、定量化が難しい幸福感を横軸としたところ、真の底辺は左下に存在すると考えられた(図3)。程度の大小はあるが、多くの一般人はそれなりに幸せで、そこまでにお金に困っていないと考えられる。
 「チーム底辺」のもう一つの合言葉は、これは中村氏の言葉であるが「底辺とは関わりたくない」というものがある。自ら底辺と言いながら、底辺とは関わりたくないという矛盾。ここに中村氏を含む「チーム底辺」の鍵がある。

図3 金銭と幸福を軸としたマトリックス図


天才は「真の底辺」が持つルサンチマンをあぶり出す。


 ルサンチマンとは、哲学者フリードリヒ・ニーチェが提示した概念であり、弱い立場にあるものが強者に対して抱く嫉妬、怨恨、憎悪、劣等感などの織り混ざった感情のことを指す。同じ貧困であっても、ルサンチマンがあると幸福感を感じにくく、自分の理解できないものに遭遇すると、容易に敵対心という行動に出る。塩野 七生氏は「誰が国家を殺すのか 日本人へⅤ」の中で、『レオナルド・ダヴィンチは「鏡」ではないか。彼を解明するというより、この天才を論評する人の品位、と言うか姿勢、のほうを映し出しているのではないか』と述べている。つまり中村淳彦という天才を前にして、敵対するのか、応援するのかという姿勢で「真の底辺」と「チーム底辺」を分ける事ができるのではないかと考えている。

「チーム底辺」の人々は「真の底辺」を脱出しているが、「真の底辺」の経験者である。


 ここまで中村氏という現象から「チーム底辺」について考えてきた。まとめとして(図4)に「チーム底辺」の立ち位置を示す。図4にも明らかなように、「チーム底辺」の人々は、既に真の底辺から脱出している人々である。では、なぜ「チーム底辺」の人々は底辺を自称しているのだろうか?それは、「チーム底辺」の人々は「真の底辺」の経験者であり、自分もいつ底辺に再度転落するかもしれないという可能性を秘めていることを認識しているために、戒めとして「いつも心に底辺を」を合言葉にしているのである。中村淳彦さんは長らくエロ本ライターだったし、春木良且先生は教授だったにも関わらず、最終講義もさせてもらえず、名誉教授の称号も受けていない外れ値であり元底辺教授である。

図4 チーム底辺が所属すると考えられている立ち位置


 「チーム底辺」の人々の「真の底辺」の経験は様々だったんだろうと考えられる。リアルな貧困もあっただろう。筆者の経験した底辺というのは、スクールカーストの底辺である(図5)。このカースト制度は、美貌、身長、運動能力など様々なものがパラメータとしてあり、総じて人気という尺度で評価される。絶対的ではなく、相対的評価なのである時頂点にいた者が容易に転落することが特徴である。また、社会において少しは通用する「勉強ができる」というパラメータはスクールカーストの中では相関しない特徴があると酒井順子氏は述べている(ワールドカップサッカーで再認識した「頭脳」や「権力」をしのぐ力とは 第7回 『ドラえもん』が表す子供社会格差)。筆者は小学校の低学年まではカーストの1軍に属していたが、思春期を迎えるにしたがって徐々に位置が低下し、カースト制度が廃止になる高校卒業まで長らく3軍に在籍していた。この非モテの底辺感は長く引きづるようであり、これが筆者が底辺を自称し「チーム底辺」に共感する理由の一つである。「チーム底辺」のメンバーも似たような経験があるのではないかと推測している。

図5 スクールカーストの1軍、2軍、3軍


 以上、中村淳彦氏と「チーム底辺」について考察してみた。やるべき仕事を年末に数多く抱える中、かなりの時間をこの文章作成に使ってしまった。それほど中村淳彦氏の毒っ気は人を魅了するのだ。

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