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遠藤周作は、妻に自分の作品を見せなかったという

コレは、めっちゃ分かる。匿名性にするか実名にするかの問題である。

遠藤周作風にいうならば、「愛はあるけれど、その愛する人に、全てを開示しないと愛と呼べない訳ではない」のだ。

私は、他のSNSでは実名で発信をしている。その時に発生する、最も面倒な周囲の反応は、「そんな事考えていたんですか?」である。

反応があるだけまだ良いのかもしれないが、隠し気味の本音を発信した時に、往々にしてこの反応がある。

普段の私と、少し論調が違うものだから、敏感な人が気づいて、その反応をする。

さらにいうならば、私の隠し気味の本音の部分は、分かる人には別に隠された事ではなく、人としての在り方の部分なので、私に言わせると、「そんな事考えていたんですか?」の反応をしてくる人は、実は敏感な人という訳ではなく、人としての在り方の部分の考え方が私とは異なる事に気づいていない鈍感な人なのである。

人としての在り方が異なる人であれば、ブロックしたら良いのでは?と思う人もいるかも知れない。

たしかに、空き缶を車から捨てるような人は、自分の在り方とは完全に異なる人なので、ブロックすれば良い(実はポイ捨ての人とも完全に切れないのが私の問題なのだが…)。

この敏感なようでいて、日々の生活の中で人としての在り方の違いに気づいていない、鈍感な人がもっとも厄介なのだ。(実は、在り方の違いに気づいているけれど、それが自分のコンプレックスの部分なのでどうする事も出来ない人もいる。)

北野さん*の言うところの、共感がない天才や、秀才であれば、そもそも凡人の共感というあり方に興味を示さないので、どんなに鈍感であっても、「そんな事考えていたんですか?」のような反応をしてくる事はないので問題はない。

問題なのは、自分は共感の神くらいに考えている人が、私から言わせると全く共感できないような、人としての在り方を持っている人なのだ。

そして、そのような人は、自分の事を共感の神と感じている為に、自分の考えは正義であると考えて、違う考えの人を攻撃するのだ。

私の考える人としての在り方を端的に言うと、「能あるたかは爪を隠す」「実る程こうべを垂れる稲穂かな」である。もちろん色んな考え方があるので、それを正義とする事はしない。考えが違うと、そっとしておく。

その反対の考え方である、自己顕示を全面に押し出す人は苦手だ。

以上の事から、私がなぜ遠藤周作の気持ちが分かるのか、察しがいい方は分かったかもしれない。

そう、私は妻の人としての在り方を共感できない事が往々にして発生しているにも関わらず、妻自身は共感の神であると自分の事を疑っていないのです。


参考

*天才を殺す凡人 職場の人間関係に悩む、すべての人へ 北野唯我 著

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