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なぜ子どもが虫や生き物を殺すのをとがめないのか、というあり方に対しての超長い話

保育者の青山さんが書かれた小さい話をまとめた本を、読ませて頂いたことがあった。むちゃよかった。それで確信したのは、どうやら小学校もだいぶん進んでから「虫、殺しちゃった…」っていう実感が湧くようなのだ。

そして、私は子どもの頃から人の感覚に同調して生きてきたので、子どもの中に「入ってみる」ことを保育でよくさせてもらって仕事をしてる。子どもが生きものをいじめたり殺したりしているとき、ただただ「体感したい」という思いだけが強くわたしに伝わってくる。

だから、すすんで虫を殺したがる未就学児たちを、無駄に引き止めるのは、マジ無駄なのだと思った。

子どもは(未就学児とくに0~1歳2歳くらい)は、私達が思うよりも、五感の入力が、脳の快楽?刺激としてズバーン、ズバーン!! とクるみたいだ、だから、命の感覚をつかんでいこうという作業なのかもしれない。

その証拠に、ある程度殺し終わると、子どもたちは無関心になる。周りに小さい生き物がずっとある環境だと、とくにそうだ。

人が何考えているかを、ある程度感じてきたわたしが、使ってきたアンテナを使うと、どうやらそうみたいだ、

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ところで。

息子が前に恐竜が大好きで、出版されてる子ども用の恐竜の本ほぼほぼみたけど、やっぱり、時代ごとに身体の形の流行りのデザインっていうのがあって、それが、恐竜という一種だけじゃなくて、当時生きていた哺乳類にもその「作風」を見ることができる気がしている、

そして、大量絶滅が起こると、また、別の似通ったデザインの生物が世の中を満たす…、まるで、大量絶滅ごとに、デザイナーが生物デザインコンペでもしているようだ。

だとしたら、現在人間がのさばり、環境を破壊しているこの時代の「デザイナー」は、何を考えているのか、と思った。

もしかしたら、人間は生物の「コンダクター」を期待されて生まれてきた種じゃないかと思い始めた。

生物は多様性を持って生まれてきて、偶然の積み重ねによって、絶滅したり栄えたりしているように見える。けれども、それの交通整理をする必要があるのでは、と「デザイナー」は思い始めた。

そして、人間が進むべき世界を思い描き、何かを守ったり支えたりしながら、たくさんの命と一体になって多様性や生態系を理解しながら管理して自らすすんでいくという役割を期待して人間を作った、

と、考えると、とてもスムーズだな、と思う。

人間が協力しないと人生を送れないような身体の構造になっているというのも、協力ということを勉強することで、やがては生物全体の協力ができるようにとの配慮ではないか…、なんつて

だとすると、幼少期に子どもが虫などを殺しまくるのも、五感の鋭い時期に殺しまくることで、いのちをどう扱うか、という体験と学習をしているのではないか…と…、今思ってる。

ここ3年ほど、ずっと思ってて、自然と信じてたことなので、お聞きいただきありがとうございました。

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