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【小説】小指の神様-⑩Pedicure, again

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第十話

 我に返ると、私はマンションの玄関に立ち尽くしていた。

 幾度か、まばたきをして残像を払ってから靴を脱ぎ、リビングに向かって食卓の上に携帯を置く。

 部屋は、いつもよりがらんとして見える。そこには梢さんも、小指も神様もいない私の内面が映っていた。

 わびしい空間を暖めるため、私はポットで紅茶を入れた。砂時計をひっくり返し、茶葉をほころばせている間に、ペディキュアの準備を始める。自分を落ち着かせるために。

 除光液で全ての色を落としてから、一指いっしずつ、ファイルで爪の形を整える。そしてベースコートを塗りながら、物言わぬ小指を眺めた。

 物理的な小指は変わらない姿で此処ここに居る。でも、そこにはもう「神聖なもの」としての面影はなかった。

 そう、神様のいない小指は、遺体のないお葬式に似ている。「私」のいない私にも似ているかもしれない。

 無くても無いなりに成立するけれど、実感や実体としての実質が失われている。魂を失って、生き永らえながら機能していない人間マリオネットのように。

 そんな遣るせない思考を、ちりんと鳴る卓上の携帯が中断させる。

 駆からのメッセージ。開こうとする前に、スクリーンに「悪かった、言い過ぎた」と通知がある。

 ― 彼らしい端的な言葉

 ベースコートを置き、カップを両手で包んで暖かい紅茶を口にした。そして思い出す。あの夏の日。本屋さんで初めて言葉を交わしたあと、アイスティを飲んで彼と話した。

 舌触りの温度に差はあっても、その香りで、肌の奥から駆との時間がうごめき始める。こんなに遠ざかっていても、目を閉じると色鮮やかに浮かび上がってくる彼の匂い。

 ― あの人は、私と感じ方が違う。

 でも梢さんが去った今なら、駆のいう正しさ、私がどれほど彼女に捕らわれていたのかも、少しは理解できる。

 それに彼は、梢さんの夫のように悪意から私を傷つけたりはしない、と思う、けれど…

 それが確信なのか妄信なのか、やや確信に欠けるのは、二人でいると、駆の持つ何かに圧倒されてしまうから。

 カップを机に戻し、LES MAINS HERMÈS 85カーマインを、親指のベースコート上に落とし込んでいく。空白に赤味が灯るとほっとする。

 ― 空白

 私は小指の爪の空白を通して、いなくなった梢さんを見ていた。もしかしたら、そのうつろを埋めようと駆に、彼の強さにすがりついているのもしれない。

 見つめて向かい合うべきなのは、からっぽな私自身なのに。私は自分の空白を他人で埋めようとしていた。

 涙が、睫毛を掠めて流れる。もうこんなとき、おちゃらける小指も、慰めてくれる神様も現れてはくれない。

 どこまでもいっても私は独りで、どうしようもなく寂しかった。でも、それ以外に行く当てもなく、寂しさの中へと降りていく。

 救いようなく辿り着いた先は、仄暗い葬儀会場だった。その入り口に立った私は、参列者のいない通路を抜けて祭壇の前へと進む。

 遺影の表面は鏡になっていて、青白い私の顔が映っていた。彼女がブラウスの袖をまくると、駆が握った指の跡が幾筋かの青い痣になっている。

 鏡の中の「私」が私に言ったこと。

あなたは
どんな傷から
目を逸らしているの

 真昼の夢から醒めようとする足元には、割れて砕け散った風船の残骸が転がっていた。その破片を踏んだとき、私は「私」の悲鳴を初めて聞いた。

 驚いて、薬指の爪を滑る刷毛はけを止めた瞬間、その叫びは、消魂けたたましく鳴る携帯の着信音に掻き消されていく。

 駆から届く音は
 目の前で鳴ると同時に
 私の内面にも響き渡っている

 その波間で
 私は揺れていた

 音色を拾って
 懐かしい腕の中で
 溺れることもできるし

 痛みに従って
 危うい浸水から
 身を退くこともできる

 どちらとも
 決められないまま

 しばらく
 曖昧に漂ったあと

 いくつかの甘い記憶を
 チョコレートのような日々を
 はかなく味わってから

 こぼれ落ちる涙も
 鳴り続ける携帯もそのままに

 私はそっと、小指に紅を差した。

 

-END-

最後までお読み下さり
😌心よりありがとうございました😌

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