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「静謐」について

せいひつ。静かで穏やかなこと、世の中が平和に治まっていること、を意味するこの言葉は、私の好きな日本語のひとつ。漢字の佇まいや音の響きさえも意味を正しく説明しているように思えるし、日本的な奥ゆかしさを感じさせられる。

言葉を知ったのはたしか中学生や高校生の頃で、当時小説の真似事が趣味だった私は、覚えたての単語を繰り返す子供みたいに、好んでこの言葉を作中で使っていた。理想的な少女を表す表現として「静謐と安寧を友とする」なんて具合に。小説は今はほとんど書かなくなってしまった。ただ「静謐」の二文字はサブリミナルのように、今も私の生活にちらついている。その証拠に、こんな文章を書こうと思ったのだ。

ある朝、彼女は私の眠るベッドに飛び乗ってきた。寝ぼけ眼のまま、いつものようにひとしきり撫でくりまわしてからiPhoneで写真を撮った。数日後、撮った写真を見返して、ああ彼女は「静謐」そのものじゃないかと思った。三歳で我が家にやってきた彼女の生い立ちは、平坦なものではない。不衛生な環境やネグレクト。大した躾もしていない彼女が誰からも褒められる落ち着きを備えているのは、それが処世術だったからなのだと、思うにつけて胸が痛む。

ある朝、彼女は私の手に頬を乗せ、まっすぐ見つめた。眼差しは他の誰でもなく私に向けられる。その幸福に、ちょっと泣けた。彼女の世界は平和だ。飼い主のうぬぼれは百も承知。

今年で八歳。シニアの入り口に立って、少しずつ、でも私よりもずっと早いスピードで年をとる。私がいつか来る別れに時おり恐怖していることを、無論彼女は知らない。ただこの静謐な眼差しが別れのその日まで続くように、願い、努めようと思う。

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2013年に書いた。
2019年のいま、彼女の眼差しが真っ直ぐわたしに注がれることは稀になり、ずっと近くなった別れの日の恐怖は変わらない。

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