生き様様々
母の死を体験してから、とても不思議だなあと思うことがある。
それは、人の寿命ってなんだろう、ということ。
仕事柄、「死にたい」という人と関わることが多くて、それは本当に心底生き疲れた末に絞り出された言葉だったり、ただとにかくこの状況から抜け出したいという気持ちを表した言葉だったり、人様々なんだけれど、そういう人がいる一方で母のようにあっさりと死に時を迎える人もいる。
法事等々のために少し長めにお休みをいただいたあと、仕事に復帰する時、ふとそういう「死にたい」という言葉を聞いて、もしかしたら怒りが湧いたりするのだろうか、と思ったりもしたけれど、そういうことは決してなく、きちんと仕事としてその言葉に、その気持ちに、向き合えたことにホッとした。
でも怒りが湧き起こらなかった分、死ってなんだろう、その人の寿命ってなんだろうって余計にわからなくなった自分がいた。
母のようにあっさり死んでしまうだけじゃなくて、闘病の末、死にたくないと思いながら死を迎える人もいる。
「死にたい」と言葉にするだけじゃなくて、実際に実行に移す人もいる。
何が良い悪いということを論じたいわけではなく、ただ単に、どんな生き様、どんな死に様であっても、それはやはり寿命を迎えた、ということになるのかなあと漠然と今は思うのだ。
そう思いつつ、でも事故や事件で死に向き合わなければならなかった人はどうなのだろう、と思うと、また一瞬にして迷子になってしまうのだけれど・・・。
母のことがあってから、人は本当にいつ死ぬかわからないのだなと実感しつつ、では明日死を迎えるつもりで日々を過ごせているか、というとそうでもない。
だけれど、嬉しい楽しいだけじゃなくて、悲しみや怒りも人生の一部であり、日々の彩りなのだから、それを含めて、1日を生きていきたいと、これまた漠然と思う。
私はいつ死を迎えても、きっと絶対に後悔するだろう。
あれがしたかった、これがしたかった、ってきっとなると思う。
後悔なく死ぬために生きるというよりも、ああ、今私幸せだなって思える一瞬を、ひとつひとつ繋げていくように生きたいと思う。
と、そんなふうに死について冷静に考えていながらも
母がいないことが、こんなにも寂しい。
母を想って涙を流していると、時々どうしてこんなに泣けてくるのかわからなくなるほど、泣けてくる。
綺麗なものを目にした時、美味しいものを口にした時、面白い話を聞いた時、そんな時に母と物事を共有できないことが、とてつもなく寂しい。
こんな底なし沼のような寂しさがあることを、私は初めて知った。
底なし沼から抜け出すために、また死について思いを馳せてみるのだ。
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