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雑記_人間の操作と幻想の維持

女性を前にすると緊張する。でも、彼女が欲しい。
なので、それを何とかしたくて風俗へ行った男です。
乱暴に短く書くと、私は若い頃、こんな感じの男でした。

今回は、迷ったのですが、長い割にまとまりがなかったので、雑記として投稿します。

まとまりがないのは、いつものことですけど…… 

ややシモネタあり。

相手をコントロールしたい。

自分の都合のいいようにコントロールしたい。

と、思っている(思っていそう)な人の言動を、じーっとみていると。いろんなタイプがいますね。

こんなことをいったら怒られそうですが、教育もカウンセリングも、広い意味では人間操作の技術なのかもしれません。

風俗店での本番行為や店外デートのお誘いでは、ありのままの自分の思いを伝えよう、なんて考えは、尊敬すべき純粋な男か、単なるバカのすることですよ。たいていは、事実を都合のいいように捻じ曲げるか、都合のいい嘘をいうのが普通。

素直な自分の心のふりをした嘘。美しいけれど一晩しか使えない嘘。相手をコントロールするのに役に立つ嘘。嘘みたいな嘘。真心みたいな嘘。ある意味、人間社会の縮図みたいな場所でした。嘘をいいたくなくても、いわなきゃいけない、みたいな。

私のヤ○ルトみたいなナニを見て、芝居がかった声で「大きい……」といった女のコがいたけれど、良かれと思って言ったのか、皮肉で言ったのか、マニュアル通りにいっただけなのか、いまだにあれはわからない。

でも、いくら善意で言ったとしても、大きくないものを、「大きい……」と言ったからといって、大きくはならないんですよ。いや、大きくはなるんですが、大きくはならないんですよ。

彼女の真意はわかりませんが、接客というか、コミュニケーションも、ある種の人間コントロールなのかもしれないですね。いや、結果としてコントロールしてしまうというか。

ネットをぶらぶらしていると、いかにコントロールするか? などのテクニック論を夢中になって語る人がいるようです。けれど、相手をコントロールして何を成し遂げたいのか? については、ふわふわしている人がいるようです。

たとえば、アフィリエイトを使ってブログで金儲けするためのテクニック論を夢中で語るけれど、その儲けた金を何に使うかとなると、大変失礼な言い方になるけれど急に陳腐というか、それまで語ってきたテクニック論と比べると、金の使い方は薄っぺらくなるのに、似ているというか。

割合はよくわからないけれど、そういったふわふわした人って、意外と多そうな気がします。

過激な例えですが、カルトを作るために相手を支配するとかではなくて、相手を支配すること自体が目的な人というか。

これは以前にも似たようなことを書きましたが、よく、日本人て目的よりも手段に力入れがちだといいます。ナンパの技術とか、コミュニケーション・スキルを身につけたら、あなたは何をしたいの? どうなりたいの? という問いに答えられない人って、多そうだよね。

そんなわけで。こういった相手に、「相手をコントロールするテクニックなり技術なりで、あなたは何をしたいの? どうなりたいの?」と相手に問うても返事が返ってこないのでは? と過去の経験から、思ってしまうことが多いんですね、ええ。

具体的な答えをすぐ言える人もいますが、経験上、そういう人は少ない感じ。もっとも、こういった話はめったに他の人とはしないので、実際はもっといるのかなあ。どうなんだろう。

で。そういった、ふわふわした人たちの根底には、不安があるような気がする。

人にしろ、モノやコトにしろ、自分がコントロールできないことに対する不安があるような気がする。

これもまた物騒な例えになりますが、そういった、ふわふわした人たちって、一見、恨み辛みで相手を殺すのでなはくて、殺すこと自体が目的な快楽殺人犯みたく見えるときがある。

けれど、そうではなくて。仮に、その相手がそう見えたとしても、「『自分は相手をコントロールできる』という感覚があって、それを感じていると安心する」、とか、そんなふうなのかもしれない。

いや、そういった快楽支配犯(?)みたいな人もいるんだけれど、もしかしたら、「自分はそれをコントロールできない」ということに対する恐怖が強い人なのでは? としたほうが、辻褄が合う場合が多いような気がする。

っていうか、心理療法の本に書いてあったんですよね。自分のしたいことを誰かに無理やりやらせるとき、コントロール感を感じ、感情的報酬を得るそうです。そういうことをする人って、自分自身の人生を、うまくコントロールできていないと感じているとか。もっとも、そういった満足感は一時的なものなのだそうですが。

自分の人生を自分でコントロールしている感覚が少ないとか、そういった感覚が無い男性が、風俗店で自分がコントロールできそうな相手を物色している…… うん、まあ、ありそうな話ですよね。

その人物が、それ、人生とか生活とかをコントロールできないから不安や恐怖を感じている。それはわかるのですが、けれど、それらをコントロールして何を望むのかについては、答えが返ってこない。 ……うん。

相手をコントロールして、コントロール感というか、人間操作感(?)を感じて、一時的に感情的な報酬を得る、とする。仮に、そうした自分の人生がうまくいっていないから他人を支配したいのだと相手が自覚しているとする。自分の人生には〇〇が足りない、欠けているから、人を操作してそれを手に入れる、とその彼や彼女が考えたのなら、ぼんやりとでも目的があるような気がするが…… いま、この窮状から脱出できれば、目的地はどこだっていいと思っているのかなあ? 

んー。もしかしたら、何かを変化させるためにコントロールしようとしているのではなくて、変化させたくないがために相手をコントロールしよう、したいと思っているのかなあ? そういう人って。

だから、そのコントロールできる力、支配する技術を手に入れて何をしたいの? どうなりたいの? とたずねても答えが返ってこないのでは。彼、彼女の目的は、何かをさせない、何かを起こさせないなのではないのだろうか? と、思うようになってきました。

ひょっとして、「あなたは何をしたくないの?」「何を避けたいの?」「何が起きるのが嫌なの?」「なにを見たくないの?」という質問なら、そういう人たちも、答えやすいのかも。

……いつも通り、自分でも、「見える」とか「思える」とか「かも」とか、推測で文章を書いていて、申し訳ないと思うのですけれど。

話を続けますね。


我が強いやり手のワンマン社長と、不安から自分の周りをイエスマンで囲んでいる人は、ぱっと見似ているけれど違うんですよね。

自分の都合のいいように相手(部下)をコントロールする、という意味ではどちらも同じなのだけれど、やり手のワンマン社長は時代や顧客の変化に合わせるが、不安な人は、そういったものの変化を認めない、認めたくないからコントロールするように見える。

新型コロナウイルスの流行により状況は変わった。けれど、その変化を拒む人たちがいる。認めない人たちがいる。都会の思考法というか、役人のルールというか、そういうものは自然に対しては無力だという、昔の漫画やアニメによくあった話をテレビやネットで見ているわけですが、相手をコントロールしたいと望むのは、ひょっとしたら、変化したくない、変化させたくない、現実を認めたくない、という望みからなのかなあ、と思う今日このごろ。

推測に推測を重ねて話を進めている、なんの説得力もない記事なのですが、いままでの話が、まあまあ正しかったとして。

では、風俗店通いやナンパを繰り返す男性の一部は、「恋人が欲しい」とか「結婚したい」とかではなくて、自分の何を変えたくないために、何を認めたくないために、相手をコントロールしようと考えたのか? 

私は、その人の中にある、理想の自分とか、幻想としての生活や、虚構の人生だと思う。

理想や理想の自分は、あっていいのだけれど、現実からあまりに遠すぎるとか、非現実的な理想の姿だとしても、一度決めたら変えることを許さないとか、そうしてしまうと、おかしなことになってくる。

十代の作家志望が、コツコツ努力しつつ、早く作家デビューして、いつか芥川賞をとりたいな、位の理想だったら、(ハードルはかなり高そうだけれど)問題はないのかもしれませんが、小説は書いたことも読んだこともないけれど、私はちょっと努力すれば芥川賞をとってもおかしくない人間だ、という自己象が捨てられない、変更ができないとなると、おかしなことになりそう、といいますか。

現実そのものと、現実だといわれているもの。それらは違うのです。違うのですが…… 上の喩えでいうと、作家デビューとか、芥川賞受賞ということと、芥川賞をとってもおかしくない才能だと自分が思ったり、周りの人がいうことは、違うわけですね。違うのだけれど、ごっちゃになるときがあります。

十代の作家志望が、現実的な努力、本を読んだり小説を書いたりするすること、そういったことを続けているけれど、理想や幻想にのまれた後者はしないだろうし、十代の作家志望は、頑張ったけれど無理だったので、諦めて違う道へ行くかもしれないけれど、後者は変えない気がします。

現実そのものは変えられないのだけれど、現実だといわれている、思われているものは変えられる。

そういう考えが、その人にあったとして、自分の頭なり心の中にある理想、理想の現実というか、幻想の現実というか、そういったもの、それを変えたくないから相手をコントロールしたいのだ、とすると、答えが返ってこないのもわかる気がする。

現実の自分よりも、理想の自分を重視する人。乱暴にいうと、プライドが高い人ですね。プライドが高くて、自分を冷静に見れない人。意識高い系って言葉がありますが、意識「も」高い系ではなくて、意識「だけ」が高い系の人、といいますか。意識と実力のバランスが悪い人といいますか。

現実の自分に合った相手は「レベルの低い女」とか言っちゃって、自分の頭の中にしかいない理想の自分に合った相手を追い求めるタイプ。

もちろん、理想の自分になるための努力は一切しない。だって、そういった努力をしたら、いまここにいる自分は理想の自分ではないことを認めてしまうから。いまの自分が、理想の自分であり続けるためには、努力をしてはいけないのですよ。努力をしたら、いま、ここにいる自分は理想の自分とイコールでない、ということになってしまう。

あるいは、努力してもどうにもならないという現実を受け入れられない、とか。

プライドが高い人って、自分のプライドを維持するためにコストパフォーマンスの悪い行動をするけれど、相手をコントロールうんぬんも、そういった行動のひとつだとすると、ふわふわしているのもわかる気がする。

っていうか、気がついていたとしても、現実や現実の自分と向き合い受け入れることよりも、理想の自分を守るため相手を操作したいんです、とはいえないよなあ。その前に、認めないかも。

自分には、テクニックとか知識が欠けている、と思うとき。その考えは、確かに正しいかもしれないが、その自分は現実の自分のことなのか、理想の自分のことなのかを確認しないといけない。

個人的な経験からいうと、人間関係の技術をひとりで学ぼうとするとき、最初はハードルはうんと下げたほうがいい。けれど、プライドが高い人は、ハードルをあげたがる。「俺だったら、これぐらいならできるでしょ」とか「こっちのほうが効率がいい」とかなんとかいいながら。

自分のプライド、自分の小宇宙、それらは現実とは距離がありすぎる。けれど、現実に合わせて、それらを変えたくはない。変えられない。でも、変わらざるをえない事態が起きた、あるいは、起きつつある。

プライドが高い人って、そういったものに直接向き合うことを避け、他人をコントロールすることで延命を図ろうとしているのかもしれない。現実は刻一刻と変化しているのに、プライドや小宇宙は変化することを許さない。

現実を変えよう、現実に向きあおうとするのではなくて、みんなが「これが現実だ」というものを変えよう、だから、みんなを変えようコントロールしよう。何のために? 幻想を維持するために。

……か、どうかは知りませんけれど。

好き勝手に、もっともらしいことをつらつら書いてみましたが、現実の自分と理想の自分って、自転車みたいなものだと思うんですよね。自転車の両輪。理想がないのもダメだし、現実がないのもダメというか。プライドが高すぎる人って、現実の輪を無くそうとして、おかしくなっていく人というか、そんな感じがするんですよね。

繰り返しますが、幸せな家庭を築きたいという理想も、毎日違う女とヤりまくりたいという理想も、そういったものがないと、人は前へ進もうとしないようですが、これらは、「いまの自分には無い、だから欲しい」というものであって、もう「理想の自分」や「理想の幻想」というものを持っている人にとって、「何が欲しいのか?」という問いは無意味なのかもしれません。

そういう人たちの推進力のヒントとは、「いまいるの理想の自分を変えないためには、どうしたらいいのか?」という現状維持のための問いなのかもしれません。

もっとも、彼や彼女の理想は、現実がそれを許さないのですけど。

っていうか、現状維持ができないような何かが現実で起きたから、非現実的な理想を維持しなくてはならなくなったわけで。かつては現実だったけれど、いまはもう非現実的な理想になったというべきなのかも。

そして、ややこしいことに、彼ら彼女らの高いプライドが、現実が許さないことを許さない。現実が理想を変化させることを許さない。許さないけれど、現実は容赦しない。人間なら言いくるめることが出来るかもしれないが、現実に対してそれは不可能。

女のコと深い関係になったのに、長続きしない人って、相手よりも、自分、それも理想の自分が好きなので、目の前にいる自分ではなくて、頭の中にいる理想の自分に合わせろと相手の女のコに強いるから続かないのか、それとも単に現実の自分(男性)を知って去っていくのか、そんな理由だったりして。

わかんないですけれど、風俗の女のコにも、たまにいましたが、プライドの高い人を相手にするときって、理想の自分という、こっちからは幽霊みたいな見えない存在を相手にしないといけないわけでして。

ナルシストは鏡に映った自分に見とれるそうですが、この場合、プライドの高い人の理想の自分の姿という、見えない自分の姿に見とれているわけですよ。

たとえば、ミュージシャン志望という名のヒモに貢ぐ女性のように、幻想を共有できるのなら、うまくいくのかなあ? 

でもまあ、相手を操作できたとしても、相手と共に直面する現実に対しては、その技術は役に立たないのではないでしょうか。よくわかりませんが。

とはいえ、そういうプライドの高い人って、遅かれ早かれ、人間関係が破綻することが多いですよね。やり手社長じゃないんだもん。お客さんよりも幽霊みたいな理想の自分を見ているんだもん。

人間操作の技術しかない人の生存率(?)って、どの程度なのだろうか。意外と少ない気がする。短期的には効果は絶大だけど、長続きはむり、みたいな。短期的な人間関係を続けざるをえない人って、そういうことなのかも。

プライドが高い人というか、意識だけが高い系というか、そういう人って詐欺師に似ている。言葉と実態が釣り合っていないという意味で。問題は、詐欺師は現実を見ているが、プライドが高くて自己中心的な人は、それを見ていない。見ているのは幻。どんなに技術を磨いても、意識だけが高い系の人って、人を騙すのには向いていないのかもしれない。

だからといって、プライドなんて捨ててしまえと言われて捨てられるものでもないのですよ。

プライドを無くせとか捨てろと思う前に、相手を操作することより前に、自分の操作、自分のプライドを操作すること、手を入れることから始めないと、ある種の人たちって、うまくいかないと思うんですが、どうでしょうかね。

プライドを維持するためなら、コスパの悪い努力を平気でする人がいるけれど、その努力が現実と噛み合っていないので、おかしなことになる。とするのなら、噛みあうようにすればいい。非現実的すぎる理想の自分の維持のために操作するのではなくて、理想を目指す現実の自分のために操作すればいい、と考えるのは、楽観的すぎるでしょうかね。

プライド。あるいは、自己愛とか我執とか、そういったものが、「こいつ(相手)をコントロールせよ、支配せよ」とささやくとき、誰にも見えない幻、幽霊のような理想が、姿を表しているのかもしれない。

相手を支配するためには現実に即した技術が必要だが、それらの行為の成功の結果として、非現実的な幻を維持することになる。現実が幻想を支えるのですよ。けれど、幻想は非現実を欲しがる。

その幻が現実と距離があるとき。ありすぎるとき。その幻は、現実を受け入れられるかな? これから始まるふたりの現実を、自分以外の他者がいる現実を、受け入れられるかな? 

……なにを書いているのでしょうか私は。

私のナニを「大きい……」といった女のコが、そうではなくて、「小さい……」といったとしたら、私は受け入れることができたのだろうか?

現実と理想、現実と幻想。自転車の両輪のようなもの。現実に対処しなくては生きていけないし、現実だけでは辛すぎる。

とはいえ、幸か不幸か、私はナニの大きさに、さほどコンプレックスがないので、ダメージはないけれど、気にする男性は多いと思う。とはいえ、コンプレックスがないので、器具や薬を使って、大きくしようという気がない。大きくはなるけれど、大きくする気はないんですよ。

「俺はナニが大きい」というファンタジーを私は持っていなかったので、助かったのかもしれないが、対処もしてこなかった。とはいえ「小さい……」と言われたら、冷静な対応ができるかなあ?

幻想を追い求めているのではなくて、幻想はもう持っていて、その幻想を失いたくないから動かない、何もしない、させない、そのために人をコントロールしよう、したいと願うのなら、「得すること」ではなくて、「損しないこと」、「増えること」ではなくて、「減らないこと」ということを、人間操作をしたい人を操作したいのなら、頭に入れておかないといけないのかもしれない。

その高すぎるプライド、過剰な自己愛を持っていること自体が、損なんですよ、コスパが悪いんですよ、プライドや自己愛を減らしたり、現実的なものに変えることは、損することじゃないんですよ、っていうか得なんですよ、とか? プライドや自己愛の維持はコストパフォーマンスが悪すぎる。巨大な出費と得られる実利とを天秤にかけてみたら、幻想を生きるよりも、現実を生きた方が、コスパがいいですよ、とか?

無闇にプライドを無くせ、捨てろというのではなくて、「高いプライドを持ったまま、現実的に生きるには、どうしたらいいと思う?」という問いが、ある種の人には必要なのかも? まあ、よくわからないですけれど。

人間を操作出来る技術。素晴らしいではないか。

うまくいけば、自分の幻想を維持してくれる人を増やすことができる。

うまくいかなくても、「自分が悪いんじゃない。このテクニックが悪いのだ。このテクニックを考えた者が悪いのだ」と思うことにより、自分が本当に向き合わなければいけない問題から目をそらすことができる。

ある種の、プライドの高い人たち、巨大な自己愛を持っている人たちにとっては、素晴らしい話じゃあないですか。なにせ、どちらにしても、現実と向き合わなくてもいいのだから。


とはいえ、世の中の人たちって、現実に対して対応しようとするひとと、非現実に対して対応しようとする人とに別れるっていうのも、面白い話ですね。笑えはしませんが。

現実を現実的に操作して異現実を作り非現実を維持する。それで何人死んだやら。この先何人死ぬのやら。