将棋の効能

将棋をよくわかっていない人たちがよくこう仰るのを見聞きする。
曰く
・将棋やってる人って頭良さそう。
・将棋をやると頭がよくなりそう。

いや、どうなんだろうね。
私としての実感は
前者は、
強い人はそうなんでしょーね。
後者は
少なくとも自分が頭悪いことには気付きます。

と言ったところか。

将棋は間違いなく頭を使う。
どっぷり使う。
しかし、局面において必要とされる能力は違う。

体感的に大別すると、

序盤は記憶力が大事だと思う。
序盤の時点でしっかり読みをいれているようだと時間がいくらあったって足りない。
この形は、前にやった形だぞ。プロで見た形だぞ。本で読んだ形だぞ。
をまず思い出し。
この後どうなるんだっけ?を思い出す。
でないと意味がない。
たしか前にここで仕掛けたら酷い目にあったはず。
藤井クンがここでたしか桂馬ピョンピョンしてボコボコにしてなかったっけ?
など。
残念なのは、基本的に失敗例をなぞるとほぼそのまま失敗するが、
成功例をなぞったところであまりうまくいかないところである。
まず、プロの成功例をなぞったところで相手がやられたプロと同じ対応をしてくれることも少ない。
仮に相手の手が実際のプロの手より悪い手だとしてもこちらもプロの手を浅くしか理解していない以上咎め方がわからないのである。
悪手が悪手を呼ぶ、である。

さらに悲惨なのは自分の成功体験をなぞることで、
所詮素人の成功体験など相手が勝手に失敗してくれただけであり本日の相手が同じように失敗してくれるとは限らないのである。
あっという間にあれ?思ってたんと違うぞ。
となるが、この失敗体験もまた自分のライブラリーに苦々しい記憶とともに、保存しなくてはいけない。
この辺では将棋の知識量とそれをアウトプットする記憶力がモノを言う。

中盤は視野、判断力、決断力を問われる。
問われるだけだが。
私の中の勝手な線引きとしては手数に関係なくこっちにやりたいことがなくなった時点で中盤戦だと思っている。
相手にとっては序盤戦かもしれないが。

この時点で明確に、良くなる手、少なくとも悪くはならない手、が見えないのでこの辺りから将棋の強さをぶつけ合うことになる。

タバコに火を点けながら自陣のウィークポイント、相手陣のウィークポイントを盤面を広く見て探す。
が、そう簡単に見つかることはない。
同じような力の相手が、好きな手をここまで指しているのだ。

正解はわからないが何かないかを探す。
この時点で相手に仕掛けられてる場合も往々にしてあるが、その時もまた、
この歩を取る以外になにか思わせぶりな手はないかを一応一通り探す。
いい手を探す、見つける、と言うのは基本的に稀で、
基本的にはこれは論外、これもダメ、こんなことしたらすぐ負けちゃう、という手を消していき、消去法で残った3手くらいの中から決断する。
私くらいの棋力になるとその3手を深く読み進めたところでたかが知れているので、ほとんどの場合、なんとなくやってみたいな、で決断する。
ここでの決断が割とすぐにくだらない決断だったと判明するが重要なことは後悔しないことである。

終盤はどこからか。
私の中では、
時間を使ってでもしっかり深く読み進める価値のある局面
であると認識している。
プロの将棋を観戦していると序盤や中盤で時間を存分に使って深く読みすすめていることが多いが、こちらは素人で時間も短い。
そもそも手広い局面で深く読んだところでたかが知れてる。
終盤ではそうはいかない。
ここでしっかり考えないとそのまま勝敗に直結するのである。

残念ながら、その”勝負所”という局面に自分だけが気づいておらず、気がついたらぼろ負け敗勢という局面も珍しくはないが。

終盤で求められるものは言うまでも無く”読みの力”である。
この読みの力、を私は
”未来の記憶力”と定義している。
異論は認める。
冒頭に書いた、

・将棋をやると頭がよくなりそう。

の私にとっての本心での回答は
少なくともこの未来の記憶力が鍛えられんじゃね?
である。
この能力が実は私の職業に直結していて、将棋によって鍛えられたり、衰えを防いでいたり、昼休みに将棋で使いすぎて午後の仕事に影響したりするのである。
未来の記憶力とは、なにか。

こっから分かりやすく書く自信が全くもって皆無である。

ある局面からの1手目の選択肢として、
A,B,Cがあるとする。(ここですでに間違えている場合はこれは仕方のないことなので気にしない。)
こちらのABCに対してそれぞれ、相手の2手目a,b,cが存在する場合
よく話題に上がるが9通り、3手目のこちらのABCが加わり27通り、4手目で81通りである。

仮に最初に初手Aで読み進め、
①A->②a->③A-④a=⑤Aと、5手読んだところでこれはダメだな、ということに気づいた場合に、①に戻るようでは時間がいくらあっても足りない。
④のaに戻して、⑤Bおよび⑤Cを検討して、⑤Bなら良いじゃないの!と気づいたところで、頭の中の局面を④に戻し、aじゃなくてbとされたらどうだ?
を検討する。
④bに対する、⑤A⑤B⑤Cを検討し、ここでもOKとなると、再び、④に戻し、
④cを読む。ここで⑤A⑤B⑤Cの中に良いと思われる手が発見できれば、
③まではOKということになるが、ここで②に局面を戻し、同じ作業をする。
これをひたすら繰り返すのだが、
目の前の盤面をしっかり見るのは①にまで戻る時だけであり、②以降の局面はさきほどの自分の頭の中の記憶にしかないのである。
ここを正確に、自由に出し入れできる能力の大小が読む力であると思う。

これが前述した通り、私の職業、ぶっちゃけて言うと、設計から実装まで行うなんでも屋プログラマーなのだが、そこで求められる能力と合致するのである。
大きな会社の一流プログラマーと違い、零細企業の3流プログラマーなので
クライアントの言う要望を素早く察知し、要件に矛盾がないか次のわがままに対応できる拡張性が確保できるかを判断し素早く実装することが求められる(俗に言う土下座外交である)のではっきり言って仕様制定に掛ける時間はない。設計書、仕様書の類はもう何年も書いていない(遠い目)。

クライントの無理難題な要望を叶えた局面から逆算しつつ、
先ほどの将棋の局面のようにAの方法ならどうだろう、その時にaの問題が起きたらどうか、bは想定しなくて大丈夫か、
ということを頭の中で考えるのである。
なぜなら実際に書いて動かしてしまうとこれではダメだと気づいた時に、
勿体無くなって、固執し、DEFGHくらいまでどんどん選択肢を広げて考えていく未来になるからである。
ここも将棋との共通点で局面を複雑化する必要があるときは大抵すでに間違えて形成が悪くなっている時である。
不思議なもので悪路を切り開いて無理やり進めば進むほど、その先には地獄しか待っていないとしても、心情的にスタート地点まで戻りづらいのである。
地獄しか待っていないだろうなぁと予感しつつ
せっかくここまで書いたのに勿体無い、
の一本勝負でさらに突き進んで時間を浪費している時間もまた、地獄のような心境である。

私はせっかく主義の権化であるため、どうしても
せっかくここまで進んだのだから、という気持ちが湧く。
そしてこの気持ちが湧いた時点で明らかに局面としては良くないのである。

そんな時は

次、同じもの作る時に、同じやりかたする?

と自問し、スタート地点まで戻ることになるのだが、
そもそも頭の中だけで進んだ道であれば、キレイサッパリ、

よし、失敗する方法を見つけたぞ。これはナシ!
と、切り替え、Bの選択肢に向かえるのである。

この時にじゃあ、どこで間違ったのか、どこまで戻るか、
を実現するに、将棋で鍛えられた、または、衰えを少しは防いできた、
”未来の記憶力”が試されるのである。

最後に直感、閃き、ついて。
将棋については技術不足で感覚がにぶいため、感じることはあまりない。
ただ、この仕事についてはそこそこベテランなのでちょいちょいある。
ある、が、これはポジティブな意味での直感、閃きではない。

悪寒、鳥肌に近い。
ちょうど3月のライオンで桐山くんが宗谷名人との記念対局で感じた、あの感じである。
順調に実装しているつもりで、不意になんとなくの違和感を背筋に感じることがある。
これが残念なことにほぼ杞憂で終わらない。
この感覚を感じたら一旦立ち止まり、改めて最初から設計を慎重に見直すと、大体の場合致命的な設計ミスを発見する。
なので、このような直感力は天から降ってくるものではなく、経験からしか
得られない能力なのだろうと老害丸出しな事を言いたい。

実はこの悪い直感、は仕事をしている上で一番大切にしている感覚である。

長い上に面白くないのは重々承知の文章だが脳内の言語化、がこのアカウントの目的であるため一切気にしにない。



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