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与謝野晶子の呪い、「わたくしごと」。

「一生」なんて簡単に詠えない。
https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/zatu/「一生」なんて簡単に詠えない。

これは昨年ミルクさんから放たれた強烈な矢のような文章です。

短歌に飛びつく人達の感性や感情の沸点があまりに低くて、形骸化したニセものがたりとして蔓延していることをずっと問題視していたというミルクさん。有名な歌人や歌を示すことで具体的にどこがいけないのかを明らかにしてくれています。

若手のエース「大森静佳」さんから御大「馬場あき子」さんまで、99.9%の歌人(特に女性)が囚われている与謝野晶子の呪いとでもいうべき(自己愛信奉)を指して、ミルクさんはいつもそれこそが諸悪の根源で、この呪いを振り払わなければ短歌は未来へは進めないとおっしゃっています。
それは短歌の可能性にまだ未知なるものを感じての叱咤だと思っていますが、確かに短歌界は「俵万智の出現」以外はさしてエポックな出来事もなく、雑誌はえんえんと同じようなくだらない短歌を作る歌人で埋め尽くされています。
結社はただの老人クラブと化して、叛乱も革命も起こせず、短歌の種をまくこともせず、ある程度のキャリアになってちょっと選者にでも選ばれようものなら、「先生!」「先生!」とはしゃぎ出す始末です。
完全に身内やお仲間に忖度をした賞にそもそも権威も功績もなく、それは回転寿司のネタランキングの真似事にしか過ぎません。
短歌を巡るこのような状態が異常であることを誰も咎めず、のほほんと現状の波に浮いているだけで本当に良いのでしょうか?
一番の危惧は、このような達人でも名人でもないエセ歌人が自らを遙かに凌駕する素人の歌を目にしても、その凄さに気付きもしないことだと思います。
あまりにも基準がグニャグニャで曖昧で、もはやその時の気分でどうにかなりそうな程、揺らぎまくっています。八方美人で何でもかんでも短歌だと言ってしまうから、もうとりとめの無いところまで解釈を拡げてしまって、収まりがつかない様子です。
そのくせ、短歌雑誌の結社広告にはやたらと「新風求む!」って、もう自分達が澱んでどうしようもない池だと自白しているようなものではありませんか。

澱んだ池の水を綺麗にするにはどうすればよいか?
今では誰でも解りますよね。水を全部抜いて入れ替えることです。

与謝野晶子の呪縛である「わたくしごと」から脱却してその先にある気付きに向かわなければ、いつまでも短歌が「自分だけの世界」というスノードームの中から出られないのです。

歌集がちっとも売れないのは、この一点に根本原因があると思います。
飛躍しすぎた比喩や自分にこびり付いた「わたくしごと」、普段は使わない難しい言葉や、自分勝手な解釈に読者はついて行けないのです。もちろん共感などないでしょう。
肌身離さず持ち歩くスマホのように、持って歩きたいほどの歌がどこにもないのだから、一般大衆という網に短歌が引っかからないのは当然です。

今本当に軌道修正して、本当に残すべき歌の方向性を見失わないようにしなければ、ミルクさんのおっしゃるように滅びの歴史を辿ることになるかもしれません。

時の濯ぎの魔の手は容赦がありません。
池の水を全部抜く覚悟が今の歌壇にあるのか、問われているのだと思います。

誰しも留めた時には「錆びる」なんて微塵も考えていなかったのに、しばらくして書類を目にすると見事に錆びて張り付いているクリップ。
時間の恐ろしさは、それを気付かせないことです。
安易に落差や舌触りの良さだけに飛びついて言葉を使ってしまうと、途端に世界観が小さく陳腐になってしまいます。
クリップを拡げるくらいの些細な力加減で感じたことを言葉にしなければ、記憶の中に残ることすらできないということを肝に銘じるべきなのでしょう。

6/33 ちょっとだけその時だけと留めたのにもうクリップは錆びてしまった
ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/