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私の好きなミルクさんの歌 012

 夏が近付いて来ました。
毎日毎日、短歌に関わるということはなかなか難しいことですが、季節の変わり目や季節感のある食べ物、行事などを見聞きする度に「歌が作れないものか?」「歌にして残して置けないものか?」と自問自答する始末。心がけてはいるものの、弱い力をずっとかけ続けるというトレーニングが一番難しいということを身に沁みて感じております。

 以前ある7月の日に、ミルクさんがメールに紛れ込ませた一つの歌がとても印象に残っていて、今回はその歌をご紹介したいと思います。

 noteに投稿を初めてから多くの短歌投稿を目にします。様々な年代、様々な環境にある方々が詠まれているのに、本当によく似た言い回し、既視感や既読感で使い古された言葉や表現、身勝手な自分語りの多さばかりが目立ちます。何百首も何千首も目にして読み続けているはずなのにふと思い出すものはミルクさんの歌ばかり、わずか三十一音の同じものを作っているというのに、何故他の人の歌は微塵も刻まれていなのでしょうか?

 これも受け売りで申し訳ないのですが、ある時ミルクさんがおっしゃった心地よい歌の条件についての言葉を思い出しました。これも本当に含蓄のあるお言葉です。

風鈴は綺麗に鳴らそうと無理に風を送ってもちっとも綺麗には鳴りません。
人が受けて「心地よい」という風がふっと流れたときに綺麗な音が鳴るものです。

多くの人が手に手にうちわや扇風機を持って必死に風を送っている姿が、今の短歌をとりまく状況に例えられるでしょう。それが人工的に作られた風であっても、「鳴った」事に殊更に感動して顕示欲を炸裂させているだけの短歌に、感動を導くことなどできないのは当たり前かもしれません。

 いつ鳴るのか解らない、そしてどのように鳴るのかも解らない、けれどもそれを感じて心に縫い留める準備は常にして置かなければならないのです。自然にその場を流れた「一見の風」だからこそ風鈴は美しく響くのだと思います。

 故人の好物だった鰻料理を手土産に持ち帰られたのでしょう。”土用の風”にその季節感のすべてが集約されているようです。何方にも経験があると思いますが、遺影は時に如実に喜怒哀楽をまとって変化します。故人の想いや残された人の願いが創り出した、かけがえのない愛おしい空間と言えるでしょう。語りかけるような上句は、家族の間で交わされたものでしょうか、または、一人で相手に問いかけたものでしょうか、比類ない優しさに満ちています。結句によって仏前と明かされたことで、一気にその場所の映像が放たれます。風鈴こそ釣られていませんが、その場に吹いたであろう微かな風を見事に表現した傑作だと思います。この精緻なセンシング能力と平易な言葉による再現性の高さがミルクさんの歌の最大の魅力でもあるのです。

・朗らかに見えたのはきっとこれのせい 土用の風をほどく仏前

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/