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「自分」をフェードアウトさせてこそ短歌(落選歌でも宝物)

 

"私が見えなくなるまで希釈せよ”


本当に有り難い、素晴らしい短歌の教えです。
ですがビックリするくらい今の短歌を巡る状況からズレています。もうずっと「自分から離れろ、自分を切り離せ」とおっしゃっているミルクさんとは真逆で、世の中の短歌の99.9%は私に固着した醜いものばかりになってしまいました。ミルクさんは何度も何度も、
「このままでは短歌そのものが消滅する」と警告しているのに、本当にわかっていないポンコツばかりで呆れます。大昔からあるのに無くなるはずが無いと馬鹿馬鹿しく思われているのかもしれませんが、昔の和歌の殆どは現代の「くだらない中二病のつぶやき」と何も変わらない、私が、私の、私は、私に、の繰り返しで自分中心のお花畑思想の落書きのようなものです。
千年前だから・・・という思い込みによって過剰で歯止めの利かない拡大解釈が行なわれ続けて、言葉を解放せずに抱え続けたツケが廻ってきたのだと思います。

 うたの日に代表される投稿サイトやNHK短歌などのテレビ番組、そしてnoteやXなどに日々流れてくる短歌の大部分が日常報告と、どうでもよい私劇場についてのものばかりであることが象徴しているように、現在の短歌を巡る状況は本来進むべき方向とは真逆の状態であると言えるでしょう。
ミルクさんも事あるごとに、「短歌はだらだらと継続されてきたくだらない私語りを卒業しなければ生き残れない」と警告しておられるように、
31音日記や31音スローガンに終始することの危うさを自覚して取り組まなければならないでしょう。とにかく初心者からベテランまでがなんとなくの大勢に流されて間違いだらけで、これだけ評価基準が狂ってしまっている状態にいつまであぐらをかいているつもりなのか、歌人と名乗る人達は果たしてどのような心持ちなのでしょうか?

 いいかげん世襲に対する根拠のない信奉も止めにしなければならないでしょう。言葉を紡ぐことに血など一切関係はないはずです。歌や踊りならまだしも言葉の感性などという曖昧なものにまで世襲を持ち出して忖度していては進化や向上は望めないでしょう。○○の子供、○○の孫、○○の子孫と言い出したらキリがありません。最後には全員が幹の根元でかち合ってしまいますからね。世襲を崇める結社や歌人のポンコツぶりは見ての通りです。当人の努力や向上心には敬意を持ちたいと思いますが、同族を思い切って断罪できるくらいの強者が現れて欲しいものです。

 今回の投稿歌もいわゆる世襲の歌人が選者だったと記憶しておりますが、特に他意はありません。自分にべったりの人に自分から離れろというのは酷な話しですから、「やっぱりそうだよね。」というのが正直な感想です。

選者云々ではなく、どちらかと言えば”臨場感”を優先して作りました。
"暴れるホース"や"ホースを踏んづける様子"や"思いの外濡れてしまって声をあげる様子"をそのままに詠んだものですが、ヘビ故の鎌首、ヘビ故の声は届かず、と思索の手がかりは欠かさずに作りました。蛇口とあるのになぜか遠い鎌首、暴れるヘビの頭を踏んづけて呼ぼうにも誰も答えないちょっとした落胆を裏テーマと共有しようと思いました。
ちなみに裏テーマは「面倒なことに首を突っ込んでしまい貧乏くじを引く人を待って自ら何もしようとしない傍観者ばかりの世の中」というところでしょうか。

状況は詠いましたが、自分の気持ちはできるだけ推し量ってもらえるようにしたいと考えました。他愛もない散水の歌ですが言葉の端々からその奥にある情景を想像出来るようにしたかったので臨場感と共に立ち止まって言葉の意味を探れる構成を心がけました。

ちなみに師匠の感想は
「蛇口の題に鎌首なのでいかにもという印象がすぐに読み手に芽生えてしまって、深く考えることをしなかった」のでボツになったとのことでした。もっと秒で「わかるぅー」となるような歌でなければ、馬鹿な選者や読み手の目に留まることはないとも言われました。

秒で「わかるぅー」となるような歌。
それって巷に溢れているゴミクズみたいな歌じゃないですか。

一騎当千の師匠と足軽の私の二人では、まだまだ戦力不足といった所でしょうか。
それでも歌そのものに対しては何もおっしゃられなかったので、勝手に及第点と納得しています。

・鎌首を踏みつけたまま濡れたまま見えぬ蛇口に声は届かず

(題詠 蛇口)

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/