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言葉のメッキが剥がれたら(上辺だけの言葉、上辺だけの短歌)

短歌の天才と宣う方の本をちらっと読んでみました。
あなたのための・・・とか言う、もったいぶった歌を作られる歌人です。
私は凡才なので何もかも教えて頂く立場なのですが、それにしてもミルクさんの教えと真っ向からぶつかるようなまるで真逆のことばかり書いてあって、一周回って面白いとさえ思いました。

この方の短歌は言葉や気持ちの上澄み(綺麗だと信じている部分)ばかりを掬って歌にされているようで、すばらしくキラキラしていて第一印象の良いものばかりが目立ちます。
(本物の短歌)を目にしていない人ならば、そんな歌でもそれなりに受け入れられるのかもしれません。しかしご自身は天才で、こちらは凡人です。師匠のミルクさんも含めて凡人の側ですが、到底その凡人の短歌に遠く及ばない出来映えです。あまりの差に笑いが出てしまうほど、天才の跨いだハードルが低いことに(笑)撃を受けました。

ミルクさんが「読まなくていい」とおっしゃるのはこの事かとあらためて納得しました。

言葉を不用意に弄んだり、軽んじて使ってしまうと、後に手痛いしっぺ返しを受けることになります。ミルクさんも口酸っぱく何度もおっしゃられています。
この自称天才歌人をはじめ多くの若手歌人に言えることですが、「うまいこという選手権」ではありません。それらしい言葉にメッキを施して上辺だけを取り繕っても、決して永遠に刻まれる記憶にはなりません。何度も何度も繰り返し大きな課題としてミルクさんのブログにも出てきますが、圧倒的に現実感(リアリティ)が足りません。どちらかと言えば質量感と言ったほうが適しているかもしれません。心が感じる「重み」がまるでないのです。もちろん心に元来重さなどありません。けれども事あるごとに「重さ」や「距離」や「状態」を表す形容詞が用いられるのが心というものです。そこに何百グラムかの質量を持った何かが存在するかのように例えられています。だからこそ、現実の質量感が伴う言葉が届き、響くのだと思います。一流のホストの方にはたいへん申し訳ない例えですが、三流ホストがお客さんを口説く台詞と何ら変わらない軽さしかない歌ばかりで、仮に作者が本当に心を砕いて必死になって作っている歌ならば、そんな努力も吹き飛んでしまうほど、張りぼて感ややっつけ仕事感が前面に出てしまっています。

いったい何故なのでしょうか?

それは歌そのものよりも、「この歌を作ったの俺、俺って天才っしょ!」というくらい作った自分に重きが置かれていて、前面に出しゃばっているからに他なりません。
「自己愛の悪魔」はたいへんにしたたかで、取り憑かれているご本人は全く気付かないということが常です。まぁ、取り憑かれていると言ってもマイノリティーの話ではなくて、今や短歌を作っている人の99.9%が取り憑かれているのですから、目立つこともなく批判されることもなく、短歌という大きな川の流れの中に一緒にいるという認識なのでしょう。
ミルクさんのように違和感を覚えて一旦岸にあがって眺めてみて初めて、
川がドス黒く汚れた水であることに気付くのです。

歌は目では見えない温もりや重みを持って、そっと静かに読者の手のひらに置かれなければなりません。ほんとうにそっと、置いたのか置いていないのか解らないくらいの静かさで、丁寧に置かれなければなりません。抜き言葉や、やたら難しい漢字、言葉や例え、旧仮名も古語も最小限に留めなければならないのです。

「たいへん歴史のある窯で焼かれた、とても古い技巧を駆使する作家の茶碗です。」と言って100均の茶碗を手渡されれば、誰しも「身構える」と思います。

ミルクさんはこの「身構えてしまう」ことを極力排しようとされています。
とてもとても解りやすい例えだと思います。
「歌人」と名乗ること、「旧仮名」を使うこと、「やたらと難しい言葉」を使うこと、「突飛な表現や比喩」を使うこと、評価軸が定まってもいない「権威」にすがること、などなど、短歌にとってのイロハのイから、すべてが狂っているのが今の歌壇と短歌をとりまく環境なのだと思います。

実力がないからそうなっているのか、それとも同じ川を流れる同胞が皆そうだから、おかしいなどと微塵も感じていないのか、陸に上がった者から見ればとても不思議な光景です。

ミルクさんの「自己愛信奉」の話しを聞いてから、宮沢賢治の印象ががらりと変わってしまいました。
とても素晴らしい作家であることに変わりはないのですが、あらためて読むとその強すぎる「自己愛」にちょっと凹んでしまうのです。自分が、いや自分の言葉が好きすぎる、自分の表現に酔ってしまって、物語がストンと入ってこないくらい内容を邪魔しているのです。そのスケール感を表現するには、この程度の「化粧」は必要だと言われればそれまでですが、「自己愛」がもう少し制御され、抑制されていたならば、物語の奥行きがもっと広がっていたであろうと思うので、とても残念でならないのです。

いったい私は何を持って今まで宮沢賢治を「絶対視」していたのでしょうか?
知らず知らずのうちに「身構えていた」のではないでしょうか。

言葉や作品に安っぽいメッキを施している張本人は、実は多くの読者そのものなのかもしれないという重いジレンマを教えてくれたのは、ミルクさんの深い洞察から放たれたこの一首からだったのです。

・賢治さん 酔っては駄目だ 自らの言葉が碧く光ってもなお

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/