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「ミルクさん」という予感

先日ノックアウトされたと書いた「遊園地シリーズ」の先陣を飾る歌です。徐々に使い古されつつある歌題「観覧車」について、時々ミルクさんはねじ込んで来るような勢いで詠まれることがありますが、私怨なのか何なのか私にはまだわかりません。

観覧車と言えば、教科書にも載っている栗木京子さんの代表作が最も有名ですね。

観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生

あーあ、旧仮名使っちゃったぞ、知らないぞーと心の中で叫んでいたら、やっぱりミルクさんにぶった斬られました。最初に読まれた時に「これは実景、実体験ではない。頭の中で作った歌だ」ということが一瞬でわかったそうです。つまり穂村さんの時と同じ、「中学生の妄想」と同類だというわけです。「想ひ出」の旧仮名も雰囲気作りの呼び出し要員で、少女漫画風の「憧れの君」と冴えない「私」の落差と不器用さを演出したという解説でした。

そのことを聞いたときには、私もそれ程までに思わなかったのですが、ミルク教の信者としてはその真相を深掘りせずにはいられません。みんなが秀歌と褒めているこの歌を何度も何度も読み返して咀嚼してみます。

確かにかざぐるまならともかく観覧車に回れよ回れって、デートなら普通に出来るだけ長く二人で乗っていたいと思うものだと思いますが、二人の恋の歯車よ回れよ回れって意味なのでしょうか。仮に恋愛には遠い関係性ならば「止まらずに恋が進展して欲しい」に対して「早くこの瞬間が過ぎ去って欲しい」という解釈が勝ることはないのでしょうか。
またミルクさんのおっしゃる「大げさな表現」も気になります。君の一日と私の一生という対比はいかにも少女漫画に著しく登場するパターンですが、前の回れよ回れのムズムズ感と合わせて何だか現実離れした感覚になることも否めません。
ファンタジーで作ることももちろん有りだと思いますが、「こんな作者の気持ちわかってよ」という必死のアピールにも取れなくもありません。

ミルク教ではさんざん「自分語り」と「自己愛」の弊害について聞かされてきましたから、雰囲気作りのハリボテが吹き飛んでしまい、私の中でこの歌も雪崩れるように陳腐化していきました。

何の変化もない地方に住む私の周辺でもこの十年あまりで地元や近くで通っていた遊園地が次々と閉園に追い込まれました。コロナ禍以前からも子供の数の減少で元気のなかった「夢の遊び場」も私の世代には貴重な青春の1ページを彩る大事な景色でしたが、跡形もなくさら地になった映像などを見るといたたまれない気持ちになりました。

そんな中でミルクさんの「遊園地シリーズ」を目にしました。
「観覧車」「バイキング」「コーヒーカップ」「ビックリハウス」「回転木馬」「コースター」「道化師」「パレード」「閉園」「廃園」とそれはセピア色の静止したスライドが、色を持って動き出すほどの実感に満ちていました。おそらく私だけではなく多くの人が同じような瞬間を味わったことがあるのではないかと想像します。

「観覧車」の上句のかっこよさ、そして「来ようね」を「来たいね」(期待ね)とする遊び心、鮮やかに夕景が浮かび上がります。そう、この感じ、この感じなのです。

そして一つの予感が頭の中に浮かび上がります。

こんな短歌なら新しい世界を見せてくれるかもしれないし、今まで見えていなかったもやもやを晴らしてくれるかもしれない、という期待というか願いに近いものでした。
同時に、模範とされている従来の歌人や歌でも、一方的に受け入れるのではなくしっかりと解釈して善し悪しを判断しなければならないという戒めでもありました。

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/