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「死」に急ぐばかりの創作はなぜダメなのか

 師匠のミルクさんは、作歌において最も使ってはいけない言葉として「死」をあげられています。「亡」や「殺」なども、出来れば使わない方がよいとおっしゃいます。もちろん、単に暗いとか縁起が悪いとか、そのような単純な理由ではありません。

 ミルクさんは「死」ほど自分の身近にあって、簡単で単純で幼稚で明確な落差言葉はないとおっしゃっています。落差の階段があるのなら、一歩目は「死」です。同じく「亡」や「殺」も二歩目三歩目という同じような位置でしょう。どちらかと言えば「絶対に使うな!」というよりは「安易に使いすぎるな!」という警告だと捉えています。

幼児にも理解できて、すべての人が経験する逃れられない運命である「死」、それはそれはごく普通の日常からはかけ離れた事象とすぐに想像できるでしょう。だからといってすぐに「死」と言ってしまうと途端にすべてがウソ臭くなり質量を失ってしまいます。
「もうリセットするしかないじゃん!!」という心境かもしれません。
逆に言えば、よほど日常が平和ボケしていて、ほんとうに「死」でももってこなければ出来事らしい出来事やショックらしいショックが感じられないほど、感覚が麻痺しているのかもしれません。

ミルクさんが最も謎評価だとおっしゃる「最果タヒ」さんの「死んでしまう系のぼくらに」の詩作全44篇で「死」か「殺」のある内容に付箋を付けたら、本の周りに付箋が貼れないほどになって、内36篇がそうだったと呆れておられました。いくらタイトルがそうだからといってこれほど堕落した創作は見たことがないし、自分に対してもそうだが、人に対してもそうそう簡単に「死」とか「殺」とかいう言葉を使ってはいけないと、怒りをもってお話されていました。
作者は一体「死」の何をわかっているのでしょうか?
最果タヒという名前なのに、最果どころか、最も足元の「死」についてしか創作できないなんて、ギャグに近い感覚です。
詩は短歌とは異なり、もっと広い事象や深い世界を創作するものかもしれませんが、それにしても幼稚すぎるでしょうし、世の中がそれを礼賛することもどうかしているのでしょう。

また人柱になっていただいて恐縮なのですが、前々回の投稿で取り上げた
川野里子さんのウォーターリリー 短歌研究社 を読んで、先に挙げた3つの言葉を探してみました。
「死」14首
「殺」2首
「亡」13首

全体の460首からすれば少ない割合かもしれませんが、どうでしょうか?
これ以外にも「戦」「白骨」など、落差が大好物の作者が好む言葉が多く使われています。

なぜ他の言葉、他の表現でこれらを表そうと思わないのでしょうか?
簡単でインスタント感覚で作れるからでしょうか、それとも思い浮かばない?のでしょうか。作者はおろか、編集者や監修者、出版社の方や同僚作家などが関わっても、この程度の創作しか世に出せないのはなぜなのでしょうか?

ミルクさんは「ぬるま湯に浸かりすぎて感性は完全にふやけてしまったのだろう」とおっしゃっていますが、最果さんや川野さんを例にあげるまでもなく、穂村さんをはじめ多くの現役歌人たちがこぞって「死」の落差を安易に使い続けています。

そういえば随分前にミルクさんにオススメの詩集や歌集はありますかと尋ねたときにこう言われたことを思い出しました。

「死」とか「殺」とかそのような言葉を使っている作家はニセモノなので
読まなくていいです。

ああ、確かに。
これもつまらない詩やつまらない短歌の原因の一つだったのです。
今後歌人や作家の善し悪しを見分ける踏み絵として使えるかもしれません。
ぜひお手元の推しの歌集を開いて、言葉を探してみてください。

それを他の言葉に置き換えて伝えるのが創作の役目だというミルクさんの素敵な短歌があります。

たとえ行く先に試練や困難が待ち受けていたとしても、モノに託した想いや願いを誰も代弁しないような世の中では救いがないのではないでしょうか。もちろん世の中はすべてが美しいものでは出来ていないけれど、創作や詩作には代弁者の美学ともいうべき心意気が感じられるものであって欲しいと思います。
大空に消えて行く風船は星になるわけではありません。けれども見送った人の記憶の中で形を変えた希望として残り続けるでしょう。なぜこの歌のように希望という風船を押す追い風のような素直な表現ができないのか、堕落した詩人や歌人にミルクさんが突きつけた静かな批判だと思っています。

・希望だと知って追うから風船は落ちる姿を誰にも見せず


さらに、言葉に酔い気味の賢治を痛烈に皮肉ったこの歌も強烈なカウンターパンチでした。

・夢よりも死の字の多き花よりもわたくしの多き あぁ春と修羅


ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/