羊文学「光るとき」にみる希望としての無常
万物は流転する。動的平衡。色即是空。
古今東西の哲学者によって語られてきた常無らないことのたとえ「無常」
その代表とも言えるのが平家物語。
この平家物語が1月アニメ化された。英雄譚として源氏の側から描かれることの多かった平家物語が平家視点で描かれるという。
その主題歌には羊文学「光るとき」が選ばれた。
そこで展開された歌詞世界は平家物語が持つ「諸行無常」「盛者必衰」とリンクしているが、それだけに留まっていない。
「無常」を「希望」として軽やかに歌い上げた美しさがそこにはあった。
「滅びる」とは何か。今回は羊文学を通して「無常」についてを書く。
諸行無常と羊文学
平家物語では平家の繁栄から滅亡までを描くことで、諸行無常を描いている。どうしても「諸行無常」はネガティブな語感を持たれやすい。はたして滅ぶことは絶対悪なのだろうか。永遠は絶対善なのだろうか。
「光るとき」ではこう紡がれる。
永遠への固執があるから苦しみが生まれる。
同じことを語った哲学者に老子という人がいる。
老子は欲望を捨て、固執を捨てた先にある大きな道(タオ)を目指せと語った諸子百家のひとりでこういう言葉を残している。
後ろも前があることで初めて存在する。どれも相対的なものでしか無い。相対的なもののどちらにも偏らないからこそ、それらが失われないと言う。
不死でいようとしたり、儲けた財産を維持し続けようとしたり、美を保とうとしていく中で、人は苦しむ。
「永遠に見えるものに苦しんでばかりだね」
永遠は求めれば求めるほど遠ざかる。捨てたり壊したりするからまた新たに生まれる。これは長い目で見れば、永遠に近い営みなのかもしれない。
因果応報と羊文学
歌詞は続く。
荒野を駆ける!という人間の意志に対して、それらは既に運命づけられていることなのかもしれない。
運命が定められているというのなら「そのすべての可能性を生きてやる」
人間讃歌
世界は自分の立つ位置や見方によって色を変えていく。生物を構成する原子はかろうじて人間や花、動植物として形を保っている。それらが死ぬと、動植物だった原子は人間を構成するかもしれない。あるいは路傍の草になるかもしれない。色々な奇跡的瞬間があって、世界は構成されている。それを美しいと呼ばずしてなんであろう。
「今この瞬間が自分であり、今この瞬間が永遠なのだ」
今を生きる
あの花が落ちるとき、つまり花にとっての役割を終えるとき、花は何を思うのだろうか?なぜ生まれてきたのか?自分は無価値だったのではないか?この世に必要とされていないのではないか?悩むかもしれない。何のために生まれてきたか、不確かな花が命を終えようとしたとき、花自身に生まれた意味はわからなくとも、花の周囲にはきちんと意味があるもの、例えば美しいものとして刻まれている。関係項の中に生がある。
平家物語を語った琵琶法師が誰だったのか、分からないらしい。でも作品は残り続ける。世界には読み人知らずの作品がたくさんある。これもまたひとつの永遠だ。
「永遠はない」というのは、悔やむことではない。今そこに花が咲くのも、枯れた花があってこそだ。
「永遠はない」からこそ、苦しさも過ぎ去っていく。楽しさも平等に過ぎ去っていく。「永遠ではない」からこそ、存在する幸福もある。
有があるから、無という概念が生まれる。
滅びるとは同時に生まれること。嫌なことがあるから嬉しいと感じられる。常に表裏一体だ。それが同時に行われている状態が生命だ。永遠なんてない。あるとすれば、誰かによって語り継がれていく物語だけだ。
宇宙が誕生し、生命が誕生し、人間が誕生したという奇跡。自分という存在はあらゆる選択と積み重ねの果てに存在する。その選択は自分だけではなく、他人や動植物・物質の選択が層のようになって今がある。数えきれない物語が積み重なって今がある。これを奇跡と呼ばずしてなんであろう。
※ここまでお読みいただきありがとうござました。ファンが勝手に妄想を膨らませたもので、羊文学さんの主張ではございませんのでご了承ください。
サムネイル写真:染谷かおりさん
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