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The Answer is always quite Simple:こたえはいつだってシンプル

わたしが写真を撮るようになったきっかけは「ことばの敗北」を感じたからだ。
わたしが「きれい」と思った瞬間、モノだったり景色だったり、それらを言葉を介して伝えようとすると、受け取り手の語彙力や想像力など、言語外の様々な要因で、本来伝えたい「きれい」が伝わらないと感じた、いや悟ったに近いもかもしれない。これをわたしは「ことばの敗北」と名付けた。
そこで、目の前の「きれい」をそのままパッケージできる手段として写真を選んだ。10代後半、18くらいのことだ。

 最初に買ったカメラはミノルタのベクティス2000。だいすきなスーパーカーのミキちゃんがアイコンをしていたから。当時主流であったAPSフィルムのカメラで、コンパクトでどこにでも連れて歩けるところ、操作がむずかしくないこともあり、本当にいつも持ち歩いていた。
次に買ったのはCanonのEOS Kiss。一眼レフ初級機の代表で、地元のカメラ屋さんでセールしていたものを購入。大学によく首から下げて登校し、校内でもよく撮っていた。
その後、母の知人からNikon F801sをレンズ一式と共に譲り受けたり、ポラロイドスペクトラをもらったり、リコーのオートハーフ買ったり。祖父からNikon FM2をもらったり。カメラには縁があり、買うよりもらうことが多かった。
 10代後半から20代前半は、本当によく写真を撮っていた気がする。シャッターを押すのが楽しかったということもあるし、自分の思う「きれい」を閉じ込めたい。その一心だったようにも思う。現像から戻ってきた写真がどんなふうに撮れているのかを見るたび、ドキドキわくわくした。
並行して小説だったり言葉は書いていたけれど、リアルには叶わないこと部分をすごく感じていた時期であったと、今振り返ると感じる。
写真を見せたら言葉よりも早く伝わることがたくさんあることに、やはり敗北というか、くやしさみたいなものを抱えていた。

 2020年も終わり掛けの12月のある日。出社するために最寄り駅まで歩く道中、突然閃いたというか、降りてきたというか、降ってきた。

目の前の「きれい」をことばで綴っても
同じ「きれい」を共有できないと気づき、「ことばの敗北」を感じた。
だからカメラを持つようになった。
わたしが見た「きれい」を、そのまま収めることができると思った。
でも、「きれい」を収めることはとてもむずかしい。
ふと気づいたのだ。
わたしが「きれい」だと思っているこの青い空。
目にしたまま、「この青い空きれい」で充分なんじゃないかと。
同じものを見ても、同じ「きれい」とは限らない。
でも、同じ空を見ている。
それでいいんじゃないかなと。

 10代で「ことばの敗北」に気づいたとき、わたしは伝えることばかり考えていて、受け取り手のことを考えたり、思いやっていなかったことに気づいた。だからこそ、”どうやったら「きれい」が伝わるか”ばかり考えていたのだと思う。
その頃、身近な人に伝わらない気持ちを抱え、とても狭い世界に生きている(きた)ことに気づいて落胆し、「一緒に居るのに孤独」を感じている状態。伝えることがメインであった理由が今ならわかるのだけれど。だからこそ、受け取り手のことを考えるべきだったことに気づけなかった当時は、まだ若かったのだなと感じる。
 今なら、放った先、受け取りによって同意だけではなく、捉え方や意味合いが異なり、様々な意見や価値観に触れることができることの楽しみを理解して伝えることができるし、閃いたことのように、その時同じモノを見ていた事実だけでも充分だと感じられる。
「ことばの敗北」に気づいたことは我ながらいいことだと思うし、気づいたからこそ写真を撮るきっかけになったわけで。
ただ、そのことについてむずかしく考えすぎていたのかなと、駅までの道のりで思った。答えって、驚くほど単純というか、くやしいほどシンプルなのだと。

なんだか長年のつかえがとれたという感じで、すーっと軽くなった朝の出来事だった。
人からするとくだらないと思われるようなことをずっと考えていたりするのだけど、疑問に思ったり考えたりすることは楽しいし、自分で気づいたり発見したり答えを導き出すことは大事なことだと思っている。納得したり、身になる・身につく近道というか、手段であると思っている。

あれこれ考えて、悩んだり苦しんだりしたとしても。
結局のところ、答えはシンプルなのだよね、きっと。いつも。

おしまい

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