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おかえり美術、こんにちは

美術というものを語れるほど美術について知らず、美術に関わる生活をしてもいない。なんなら美術の対義語みたいな工場で働いている。

ここでいう美術とはあくまで俗っぽい意味での美術であることをことわったうえで、俗人たる私と美術にまつわるしょぼい個人史の一幕を、なんとなく書き置きたい。

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私は子どもの頃から、色や形に多少のこだわりをもって物を見ていたように思う。美術の成績は5段階評価で4〜5をウロウロしており、他の科目よりは得意だった。

高校生の頃から、たまに美術館に行くようになった。印象派の作品をとくに気に入って見ていた記憶がある。自分もいい絵が描けたらと、少し練習したりもした。

20歳ぐらいになって、山を歩いたとき、すさまじい木漏れ日を見た。太陽の光と緑の葉が織りなす、360度全方位の自然の美しさに全身を貫かれたようになった。人間の作り出した美術というものは、少なくとも自分の理解の範囲では、この圧倒的な自然の美にかなわないと思った。ましてや私がどんなに練習しても、きっとこの美しさには届かないし、かすりもしない。それから私は絵を見なくなっていった。

就職した頃、好きな川ができて、休みのたびに通い詰めては眺めていた。あの山と同じかそれ以上に緑が茂り、太陽が照らし、水面は透き通ってキラキラとしている。

遠くに転勤になっても月3で帰ってきては川を眺め歩いた。新幹線代で毎月赤字の生活収支、なんのために働いているのかよくわからなかった。その後念願叶って帰郷するや、川のほとりに移り住み、休日を心待ちにしては川に出かけ、何時間も何時間もそこにいた。

それから何年か経ったあるとき、いわゆる2023年、友人と連れ立って訪れた街で、雑居ビルのなかにひっそりと構えるギャラリーに入ってみた。一人だったら入っていなかったかもしれない。

戸を開けると、そこには驚きの空間があった。陶器やさまざまな古道具、ガラクタにしか見えないものを針金で繋いだ小さな作品などが飾られていた。

静物でありながら、土がうねり、有機的に躍動し、なのに仕上がりは洗練を帯びて気高く瀟洒で、生気さえ感じさせる陶器たち。道具として本来の使われ方をするのではなく、ただそこに置かれることで外形的魅力にスポットを当てられ、その前半生を老いた色気として滲ませる古道具たち。そしてそのほか得体の知れない謎の物体たち。

これらが絶妙に余白のきいた配置で白い壁と石の床に包まれ、ビルの一室でありつつ美術館のようでもあり民家のようでもあるこの空間を、落ち着きと美と調和で満たしていた…ように感じた。

このとき私の中で、生活と美術が地続きになった。同時に、いや少し遅れて、美術とは自然を人工的に解釈するためのレンズなのだと気付かされた。

語弊しかない表現だが、すべての絵は抽象画だ。たとえどんなに写実的な絵であっても、それは人間の眼によって切り取られた風景なのであり、人間は人間のレンズをつかうこと、つまり「抽象する」ということを通してしか対象を認識できない。

この抽象というレンズがあればこそ、山や川の自然の優美により深く気づくことができる。また、何気ない生活のなかの一場面、どうということはない道具類や、ヒビの入ったコンクリートの壁や、古い窓枠からさえも美しさを見い出すことができる。

抽象のレンズを磨くために、美術がある。もともと自分の持つレンズはたかが知れている。だから素晴らしい美術を見て、自然や生活の切り取り方を学ぶことは大きな財産になる。それは抽象のレッスンといってもいい。そうすれば、味気ない日常にさえも、きっと色がつく。美しい絵を見ることは、その後の人生に1円ももたらさない代わりにQOLを高めてくれる。


こうやって接するものだったのか、美術。

といってもこれは私の暫定解でしかない。しかも私は美というものを「快」と取り違えているきらいがある。

けれどこれは重要な発見だったと思うから、ここにこうして書いておく。そんな体験をした今年の梅雨である。雨は意外と降らない。

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