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メルヒェン日記 01「写真」

ここ数日、毎日のように自問自答する記事を書いて、だいぶ答えに近づいてきた気がする。

私は、視覚情報に意識を向けやすく、目で見た風景のその印象を強く脳内に焼きつけている。それはインスタのフィルターみたいに、視界に魔法をかけてくれる。フィルターの生成を、汗水たらさずに自然とやってしまっている。

それが、メルヒェンの呼吸。その呼吸で空間を埋めつくして、絵本の世界に住むんだ!みたいなことを連日書いている。ピーターパン・シンドロームがとまらない。

ところで最近、写真、始めました。


前の記事で、「絵や写真は外部化されていて、中に住むことができない」とか書いたばかりだ。

たしかに、写真は空間そのものではない。空間の一部を切り取って、カメラやスマホ画面に収めたものだ。

けれどその背後には、それを撮る人の着眼点があり、その色や形に魅せられた感受性がある。「何が写っているか」よりも、「何を写そうとしたのか、どんな理由でそうしたのか」。写真のその後ろにこそ、魔法はあった。写真とは、言葉以上に言葉なのかもしれない。

言葉は世界の一部であり、世界をどう見るかを規定している。言葉は空間を作れる。ならば写真にもそれができるのではないか。空間の印象をぎゅっと画面に閉じ込めて、閉じ込められたその奥行きを紐解けば、印象は湯気とともに蘇るのだ。それは空間のフリーズドライ。お湯をかければ、ほうれん草が花ひらく。


さっき、家路についていたら、ふと雪が降ってきた。

いつもの街角に降り注いだそれは、紛れもなく魔法だったのだ。

感性の旅は、始まったばかり。

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