私とあなたの物語。J.S.ミル著『功利主義』を読んで
幸せの数は多いほうがいいし、不幸の数は少ないほうがいい。
シンプルな考え方だと思う。これだけ見ると「ああ、そうだよなー」と思ってしまうけれど、本書『功利主義』を読んで考えてみると、もっと話は広がっていく。答えはなく、無限に考えさせられてしまう。
●どんな考え方なの?
功利主義とは、ざっくりいうと「最大多数の最大幸福」をめざしたら世界はよくなるんじゃない?という考え方である。
幸福とは、快が多いことと、不快が少ないこと。人が追い求める幸福の種類はいろいろある。音楽、お金、道徳、名誉…
もともと幸福のための手段だったものが、目的に変わることがある。それを追求するのもまた、一種の幸福である。
たとえば、ものを買うための手段にすぎなかったお金を目的として追い求めるといったこと。それと同じ形で、道徳を追求することもできる。「人間同士うまくやっていくための方便」が、「うまくやっていくのって最高やん?」に変わることがある。
功利主義にもとづくと、自分の好きな幸福を追い求めるのは良いが、それによって他人の幸福を妨害するのはダメだとされる。自分のことも他人のことも、ひとりの「人間」としてフラットに捉える考え方のようだ。
しかし私たち多くの人間は、自分優先に考えがちである。そこで持ち出されるのが「周りの目」だ。
周りの目と、周りの目を自分の中に取り込んだ「インナー周りの目」によって、私たちは「他人の幸福を妨害するふるまい」を自分のためにも自重するようになる。
だれしも、安全を脅かされたくはない。だから、お互いを尊重して、ぶつからないように、お互いの幸福を減らさないようにやっていきましょう、というのが功利主義的な道徳のようである。
とはいえ、社会制度が整っていないと、そのひずみのなかで犠牲になったり損をする人が出てきてしまう。社会制度が整えば、もっと多くの人が他人を思いやれるようになり、全体の幸福度も上がるだろう。これが著者の見解だった。
●最大多数の最大“教育”?
他人を思いやれる人を増やし、お互いの幸せを妨げない社会にしていくには、「教育」のパワーが有効だと著者はいう。
「最大多数の最大幸福」は、「最大多数の最大教育」で実現するということかもしれない。
ところで、それは「ひとつの神様をみんなが信じれば、みんなハッピー」「その教えを世界に広めよう」という一神教と、どう違うのだろう?
功利主義とは「神様を頂点に据えない宗教」のように思えた。神様の代わりに頂点にあるのは、ほとんど全ての人が求めるであろうもの、「安全」と「幸福」だろうか。
お互いの幸せを妨げないこと。言い換えると、他人に迷惑をかけないこと。この考え方は現代日本に馴染んでいるように思う。日本人は無宗教を自認しがちであるし、「周りの目」に縛られがちだ。縛られすぎて、いっそ「嫌われる勇気」みたいなものが必要になるほどだ。
もしかすると現代日本は「教育」が効きすぎた世界線なのかもしれない。
さて、最大多数が最大幸福になっているだろうか? 著者の描いた理想社会と日本社会との違いはどこにあるのだろうか? 功利主義はユートピアをつくるのか、それともディストピアをつくるのか?
安全を脅かされる、教育される、などというとき、「人間」は受け身的なものであるように感じられた。
受け身的になると、自分の幸福が見えづらくなることがある。幸福の最大化のためのふたつ、「幸福を増やす」と「不幸を減らす」、このふたつは、きっと表裏一体なのだ。「不幸を減らす」に特化しようとすると、幸福もいっしょに減ってしまうのではないだろうか。
●自己防衛+共感=正義
個人的には、本書のサビは「正義」についての話だった。正義とは、自分(たち)を守りたいという気持ちから発生する。
自分が殴られるのは嫌だし、家族や友人が殴られるのも、いい気持ちがしない。それは理解しやすい感情である。
しかしこの感情は、「私たちの安全を脅かす者を殴りたい」という攻撃性に転じることがある。何かを守ろうとするとき、攻める力もまた生じてしまう。
自分を守りたいという気持ちを誰かへ重ねたとき、「正義」というパワーとなり、「私たち以外」への暴力になる。
正義の名のもとに、誰かのために憤りをあらわしている人は、じつは自分のことで怒っているのかもしれない。自分のことを、勝手に誰かに重ねている。
動物も、自分の子どもを守るために外敵と戦ったりする。人間にはより発達した知性と共感性があるので、共感の範囲を社会全体にまで広げていくこともできる。そうなれば世界はよくなるぞ!という話に、本書ではなっていく。
法律や権利というものも、人への共感から生まれたものだろう。お互いのお気持ちを大切にするためのルールだ。お気持ちには、「生きたい」「安全でいたい」というベーシックなものも含まれる。
正義を振るう人たちから共感してもらっているから、法律や権利に支えられて、安全に生きていられる。その反面、共感対象の枠からはみ出すと、排除をくらってしまう。正義、ありがたいような、怖いような。
●私とあなたの物語
ここまで見てきて、私の目に映った「功利主義」は、「私とあなたの物語」だった。私とあなたは違っているが、同じ「人間」である。だから、うまくやっていきましょう、という話だと思った。
ところが、「うまくやっていく」を最大化すれば、「私はあなたである」という状態がもっとも合理的になってしまう。すべて「私たち」という同じ色に染まれば、わかりやすいし、やりやすい。
たしかに、「危害を加えられたくない、安全を求めている」という点において、私たちは一色かもしれない。
しかし、安全のその先を考えられるようになってくると、これまで塗りつぶされてきた無数の色がうごめき、騒ぎだす。塗りつぶされた色たちにとって、これまで「安全」はあったのだろうか?そこに「危害」はなかっただろうか?
私とあなたの、「ちょうどいい距離」の測り方。功利主義は、それを求めていたように思う。ところが、お互いの安全と利益を求めること、それそのものが目的になり、それを突き詰めていくと、どこかで「私」や「あなた」や「距離」を忘れてしまうのかもしれない。そして、それらを忘れた者のほうが生きていきやすい場が、「社会」なのかもしれない。
「あなた」と「私」、「みんな同じ」と「みんな違う」、「不幸を減らすこと」と「幸福を増やすこと」、これらはどちらかひとつあればよいというものではなく、ものごとの両面であり両輪だと思う。
「功利主義」はそれらを橋渡しするものだが、それらをひとつにまとめてしまうような強引さと窮屈さを、すこし感じもした。
以上、共感の範囲がせまい人間による、斜め読みでした。
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