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子ども

私は子どもが好きだ。子どもという存在も好きだし、相手にするのも楽しい。もちろん、大人の理屈が通じなくて頭抱えることも多いけれど、それでも自分も通ってきた道であるし、子どもの理屈を聞くと、今は大きくなるにつれてどこかに置いてきてしまった考え方だったりして、面白いなぁと感心してしまったり、懐かしいなぁと思ったり。

大学生になって、子どもと関わる機会が増えた。高校で進路を決める際に、漠然と「子ども好きだなぁ」と思ってたけど、今は自信もって「子どもが好きだ。」って言える。私が対象とする子どもは小学生。小学生は素直でかわいい。だからこそ、私の子どもとの接し方には信念がある。少しだけ書いてみようと思う。

一言で言えば「素で接する」。
基本的に子どもっぽければ子どもっぽいほど、子どもは素で接してくれる。だが、私自身が子どもの時は違った。なぜなら、私は子どもながらに相手が真剣に向き合ってくれないなら、私だって自分のこと言わないもん、っていうスタイルだったから。私の担任の先生は、私に対して(多分他の子に対してもだと思うが)、真剣に向き合ってはくれなかった。はっきりとした裏付ける理由はよく分からないけど、感覚的にそう感じていた。子どもにとって、自分を出さないことは簡単なことではない。なんなら、装ってる自分を認めてくれてるだけだから、本当の私は認められてない、と感じていた節もある。
自分の経験もあり、子どもにはありのままの姿で接して欲しいと思っている。そのためには、私も子どもに対して真剣に向き合っているという証である「素で接する」ということをしないといけないと思っている。

もう1つ、最近気づいた私の中で潜在的にあった信念みたいなものがある。それは「希望を持たせる」ということ。今まで意識してなかったけど、気づくきっかけになった出来事がある。それはバイトの後輩との会話の中で。

私は以前小学校のボランティアで、子どもと接する中で何気なく子どもから「アーニャ描いてきて」って言われた。私は断らずに「うん、分かった。来週持ってくるね」と言って、次の週しっかり持っていった。それをきっかけに、色んな子たちから色んなキャラクターを頼まれるように。もちろん、嬉しかった。だって、頼られてる感じもあるし、描いたものを渡すとめちゃくちゃ喜んでくれるから。だけど、私にとって1週間に10枚ほどの絵を描くのはかなり負担だった。その話をバイトでした時、
後輩:「なんで断らないんですか?忙しいからって断ればいいじゃないですか。」
って言われた。ごもっとも。だけど、私が反射的に返した言葉はこうだった。
私:「子どもたちは私の絵を楽しみに待っているから、簡単にやめるわけにもいかないの。それに、忙しいからっていうのは私の勝手な理由であって、子どもたちには関係ない。子ども達には大人はなんでもできる存在であり、憧れの対象であってほしいと思ってるの。だから、大人の闇はなるべく出したくないのよね」
反射的に言ったものの、自分で驚いた。こんなこと思ってたんだって。もちろん、間違ったことは言ってない。し、私が心の中でヒタヒタと燃えていた感覚が初めて言語化された感じがした。

そう、私は子どもにとって、大人は憧れの対象であって欲しい、と思っているのだ。だから、簡単に断れないし、例え自分が苦しくても絵だけは描くべきだと思っている。たかが絵、されど絵って感じかな。

だが、私はこの前甘えが出てしまった。本当に心も時間も余裕がなくて絵を描く時間がなく、きつかったのだ。それでも、絵は描いた。だけど、色はぬれなかった。早起きしてでも塗るべきであるのは分かってたけど、心のどこかにあった甘え、それは「塗り絵でも面白いんじゃないか」という、色を塗る時間がなかったことを肯定するかのような考え。私はそれを信じて子どもの元に行ってしまった。案の定「えー色塗ってないの?」「塗り絵じゃダメ?」「うんダメ。先生が塗らないとダメなの。」「そうだよね。じゃあ来週まで待っててね、、」
こんな会話になってしまった。
心底申し訳ないと思った。ごめんね、って何度も心の中で謝ってた。私が全面的に悪いのだ。子どもたちは何も悪くない。私は子どもの期待を裏切った。自分が招いた結果だけど、その事実が私に重くのしかかった。これまで築いてきた信頼関係。小さく壊れるんじゃないか、っていう思いが大きい。だからこそ、次行く時は完璧に仕上げて持っていく必要がある。もう一度同じ誤ちをおかすわけにはいかないのだ。

子どもは素直だ。私がたとえ少し無理をしても、大人が子どもに無理をさせてはいけない。期待を裏切ってはいけない。これがボランティアを通して感じたことの1つ。

子どもと接することは楽しい。私が忘れてしまった感性や理屈を子どもを通して思い出すことができる。
私のスタイルは基本的に子どもと同じ目線に立つこと。ダメなことはダメと言うけど、それ以外は子どもの気持ちに立とうと努力する。だって、大人だから偉いわけでもないから。ただ、地球にいる時間がすこーしだけ長いだけ。悪いことを除いて、大人が偉そうに子どもに理屈で論破する必要はどこにもないと思っている。

こんなことを言っているから子どもの言いなりにはなってしまうのだが、それはそれで楽しい。多分教師になったら、子どもの言いなりという訳にはいかないだろう。ボランティアだからこそできる立場なんじゃないかって思うから、今はこのスタイルを大切にしている。

友達や色んな人から「よくそんなにできるね」「ボランティアなのに」「すごいね」って言われることもあるけど、本人は至ってすごいことをしているつもりはなく、単純にこの状況を楽しんでいる。

長くなってしまったが私の子どもに対しての関わり方のスタイルはこんな感じ。子どもを裏切ってしまった件は辛いと思ってるけど、それをきっかけに自分の子どもに対する考え方がはっきりと見えてきた。

子ども達には感謝してるし、ボランティアとして呼んでくれた小学校の先生たちにも感謝してる。本当に貴重な経験が出来ているなぁと感じる今日この頃。

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