見出し画像

惑星アサバスカ(前編)〜氷河の上での宇宙ロボット実験-小野雅裕

つい先日、10日間の変わった出張から帰ってきた。行き先はカナディアン・ロッキーの風光明媚な観光地バンフからさらに2時間北にあるアサバスカ氷河。目的は、氷河の上で将来エンケラドスなど氷衛星を探査するためのロボットの実験をすることだ。
 
氷河を見ることも、ましてやその上を歩くことも、生まれて初めてだった。氷河に向かう最初の日、数ヶ月前に読んだレイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」という本の一節をふと思い出した。

It is not half so important to know as to feel.
知ることは、感じることの半分も重要ではない。

レイチェル・カーソン 『センス・オブ・ワンダー』

はじめて氷河の上に立つ時、僕は考えるのではなく感じようと試みた。意識を大脳新皮質から切り離し、五感に直接接続した。
 
頭にはヘルメット、足にはアイゼン、胴にはクライミング用ハーネスを纏い、氷河の上へ僕たちを運んでくれたバスのタラップを降りた時、僕は何を感じたか。

たぶん、その時の気持ちは、アポロ11号の月着陸船イーグルのハシゴを降り、月面に「小さな一歩」を踏んだ時のニール・アームストロングの気持ちと似ていたと思う。
 
大袈裟なのはわかっている。でも、氷河は月面と同じように、日常とは隔絶した新世界だった。幅約1キロもの氷の川が、峠から溢れ出だし、足元を通って下界へと流れる。その両側にそびえ立つ数百メートルの裸の岩壁。草木一本も生えない氷の上を吹きさらす風の音。風が一瞬止んだ時の、耳鳴りがするような静寂。
 
事実、今回の氷河での実験は、さまざまな面で月ミッションと似ている。
 
たとえば、ロボットや装備品を保管したり、実験中に休憩したりするために設置したベースキャンプは、なんとなく未来の月面基地に似ている。


アサバスカ氷河の上に設営したベースキャンプ
未来の月面基地の想像図

そしてベースキャンプの中には宇宙ステーションのようにメンバーの出身国の国旗が掲げられている。

ベースキャンプの中
国際宇宙ステーションのきぼうモジュールに掲げられた万国旗

月面を走るには特別な月面車がいる。

月面ローバーの想像図

氷河の上に行くのにも特別なバスに乗り換える必要がある。

氷河に行くために使用するIce Exploreroというバス。南極でも使用されているそうだ。

月面と同じく、氷河の上は危険がいっぱいだ。そこらじゅうに深さ数十メートルにもなる垂直な穴が口を開けている。数日のうちにそれまでなかった深さ数メートルの水たまりができる。滑落したら命はない。

訓練の一環で、深さ8メートルほどの竪穴にロープを使って降下した。

今回雇ったガイドの一人が、歩行時に常に意識を安全に向けさせるためにこう言った。
 「君たちが氷河の上で踏む一歩、一歩の全ては、意識的な決断でなくてはならない。」

そして、氷河の上にはトイレがない。それどころか自然保護区なので立ちションもしてはいけない。だから、オシッコをするボトルを持っていく。リュックサックの中にはオシッコボトルと水のボトルが仲良く並んで入っている。間違えた方を飲んでしまわないように細心の注意が必要である。

昔の宇宙船にもトイレはなかった。アポロの宇宙飛行士たちは、下の写真にあるような器具で用を足した。UTSなどと仰々しい名前がついているが、ビニール袋に毛が生えただけの代物である。アポロ10号では下痢をした宇宙飛行士の💩が船内に浮遊する事件が発生した。アポロの前のジェミニ宇宙船には冷蔵庫が一つしかなく、その中に宇宙食と💩入りの袋を並べて入れていたそうである。

少し脱線したので元に戻そう。
 
氷河と美しいカナディアン・ロッキーの峰々の他にもう一つ、この地で僕が見つけた素晴らしいものがある。
 
星空だ。
 
大都市から数百キロ離れた山の中にあるこの地の星空は、おそらく地球でもっとも美しいものの一つだろう。しかも着いてから数日は上弦の前だったので、夕食後に外に出れば月明かりもなく、天の川がくっきりと見え、アンドロメダ銀河も簡単に見つけることができた。東には木星が抜群の存在感で輝き、土星は南に少し控えめの銀色の光を放っていた。

宿泊したモーテルから見た紅葉の森と天の川。よく見ると流れ星か人工衛星の光跡が写っている。

インターネットもテレビもなく、電灯すらなかった頃、人々にとって星空は夜の一大エンターテイメントだったに違いない。僕たちの祖先は数千年にわたって、星空に数え切れないほどのストーリを見つけ、さまざまな問いを星空に向かって投げた。
 
たとえば、どうして五つの惑星(ハーシェル以前は天王星と海王星は知られていなかった)だけが他の星と違った動きをするのだろうか。この問いは、科学の起源のひとつになった。
 
まだ解かれていない問いもたくさんある。たとえば、これだ。
 
我々は宇宙にひとりぼっちなのか。
 
おそらくこれは、人類にとって最も古く、最も深遠な問いだろう。
 
天の川銀河とアンドロメダ銀河にはそれぞれ数百億の星がある。そして宇宙には数百億の銀河がある。この星空のどこかに、地球のように生命を宿す星はあるのだろうか。それとも宇宙は広漠たる命のない荒野なのだろうか。
 
その答えを見つけることが、現在のNASAの太陽系探査の大きな目的の一つである。
 
そしてそれが、僕たちが今回氷河の上で実験したロボットの究極の目的でもある。
 
大人の事情で、実験の結果はJPLが公式リリースを出すまで書けないことになっているので、後編まで楽しみに待ってほしい。
 
でもこれだけは書いていいだろう。
 
今回の一連の実験で、僕たちは夢に一歩近づいた。
 
それは、一台のロボットにとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍となる可能性を秘めた一歩である。

氷河にかかった虹。この日は僕の誕生日だった。

氷河にいる間に41歳の誕生日を迎えた。仲間たちが祝ってくれたが、やはり家族と一緒にいれないのは寂しい。そして僕がいない間にゆーちゃんがはじめて立った。たった10日なのに、「地球」ではいろんなことがあったようだ。

将来の有人火星ミッションは約2年にもおよぶ。家族と離れて火星に赴く宇宙飛行士はさぞかし寂しかろう。

小野雅裕
技術者・作家。NASAジェット推進研究所で火星ローバーの自律化などの研究開発を行う。作家としても活動。宇宙探査の過去・現在・未来を壮大なスケールで描いた『宇宙に命はあるのか』は5万部のベストセラーに。2014年には自身の留学体験を綴った『宇宙を目指して海を渡る』を出版。
ロサンゼルス在住。阪神ファン。みーちゃんとゆーちゃんのパパ。好物はたくあんだったが、塩分を控えるために現在節制中。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?