自分が利己的であることを自覚すること

 利己的であることや利他的であることについて考えていたが、人間は(というより自分は?)結局は利己的でしかありえないのではないかと思った。それは、人間は意識せずとも、それぞれ善悪の価値基準を持っているし(それが周りに与えられたものでも、自分で創造したものにしても)、そこによりかかってでしか何か発言したり行動したりすることはできないのではないだろうか。

 もし自分のことを何にもよりかからずに客観的に発言したり行動したりすることのできる人がいるとしたら、その人は自分というものがないのかなと思ってしまう。というよりは、客観的という言葉の認識を改めた方がいいのだろうか。これまでは客観的というのは、上に書いたように何にもよりかからない立場にあるということだと思っていたが、そうではなくて、自分の考えをきちんと持って、その上で他の立場の人やものごとを知ろうとしていくことなのかなと最近は考えている。

 自分が客観的で利他的な存在だと言い張って、無自覚に他人を傷つけるよりは、自分が客観的になるのは難しく根本的には利己的な存在だということを受け入れていく方が、自分にとっても他人にとっても誠実な態度だと思う。自分のために何かをして結果的に他の人のためにもなった、くらいの方が気分が楽だし。こんな風に言ってしまうと自分のことを冷たい人間だと言う人もいるのだろうか。でも、自分が満たされていないのに、誰かに贈り与えようとするというのは、すごく歪でなんだか気持ち悪くなってしまうから、自分はこう考えるしかないのだろう。

 小中学生だったときは、自分は他人に優しい人間だと思っていたし、実際に友達からも優しいと言われていた。しかし、その頃のことを思い返してみると、ただ周囲の人や空気に流されやすくて自分がなかっただけのような気もする。それは本当に優しいと言えるのだろうか。

 ということを考えたところで、そんなことはどうでもいいやと思ってしまった。別に誰かが自分のことを優しいとか優しくないとか、利他的だとか利己的だとか思っていたって、それは自分の本質には関係がないような気がしてきた。それよりは自分がどうあるべきか、どうありたいかが重要なのではないか。まあ、そうやって自分に向き合うことが難しいから、外からの評価に固執してしまうというところもあるのかもしれない。自分自身であり続けるというのは難しいものだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?