『斗起夫』ワークインプログレス座談会⑥
「今作『斗起夫』について〜より上演することを意識した戯曲をつくる〜」
なかじま:この8月のワークインプログレスまでで、小説を戯曲にするとお聞きしていて、この後に戯曲を上演作品にする調整があると思うんですけど、
戯曲としての流れや構成も皆でつくったのでしょうか。それとも宮澤さんがつくったのを戯曲として皆が読む形になったのでしょうか。
みやざわ:後者ですね。構成自体は小説と変えてなくて、シーンの順番も小説のままです。あとは何を削っていくかという選択の連続でした。
本当に最初は、小説を全部読むというバカな案もあったのですけど、俳優の声で読んでもらって、情報じゃなくて言葉の響きとして、演劇として補えると思ったので、言葉を削いで戯曲にしていきました。
なかじま:これはもし私がやるとしたらなんですけど、戯曲を上演台本にするのかなと思いました。
例えば、これが一つの演劇の上演を前提とした戯曲、小説とは違う文学作品になったとして、そこからまた演劇に立ち上げたときに、削るとか違う味にしてみるとか、新たに生まれてくると思います。
地の文が実際に発話されるのが、この戯曲の特徴だと思うので、単に地の文があるのではなく、作品の中で地の文を発話することがアクセントになってくるとすごく有意義だなと思います。
今日はどっちかというと小説を読んでくれるラジオに近い体験だったので、身体があった時にどう見えるのかが気になりました。
さとう:戯曲というよりは、小説を聞いているという体験だったのでしょうか。
なかじま:小説というよりは、
みつはし:ちょうど間。
なかじま:そう、間。
みつはし:北千住BUoYのあの会場で立体的に立ち上がるのが想像できます。「キュン」のシーンは最高なんだろうなとか、思いつつ、まだベースの方が全体としておもしろい部分があるので、ここは小説として読んだ方がおもしろいとか、ここは演劇として見た方がおもしろいとか。そこがまだ、新しい試みということもあると思うのですが、どっちなのだろうと思いました。
「今作『斗起夫』について〜N(ナレーター)の発話〜」
じんぼ:それで思ったのは、斗起夫の発語がめちゃくちゃ重要なのではないかという気がして。
読み間違えなのか、Nと斗起夫のセリフが交差したときがあって、ああいうのが演劇的な仕掛けだと思いました。あの瞬間に空間が見えた気がしました。
あと、小説からつくられているからか、宮澤さんのアングルを感じました。引いたり寄ったり切ったり。カットチェンジなのかフェードチェンジなのかというイメージがあって。そこがテキストで実現したいこととの整合性が取れていると、もっとコントロールできるなと。なんで引いているのか、なんで寄っているのか、それがテキスト上に現れていて、俳優と共有して、俳優もそこから演技を立ち上げていけると、速度が上がってきそうな感じがします。
なかじま:私も斗起夫とNの語りで、最初は「斗起夫がずっと語っていく感じ?」と思って聞いてたんですけど(笑)序盤で急に、「ゲロ女とセックスできない〜(戯曲の中のセリフ)」でNが入ってきて、「え~なに~」と思って。
その後、斗起夫を含めて語る視線が出てきたと思って、そっちで進むのかと思ったら、そこが行ったり来たりするところが、「あ~おもしろそう」と思いながら聞いてて、Nは一体どこにいるんだろうとか(笑)
映画みたいにカットを決められないので、視線の誘導ができると面白いと思いました。地の文があることで、通常だと目がいかないところに視線が行ったりとか、視野が広がったり狭まったりとかすると、「お~小説が演劇になってる!」と思うのかな。どうやるのかは分からないですけど(笑)でもそういうのを想像しながら聞いてました。
みつはし:Nだよね。
Nは内面を吐露することを全部言うから、諸刃だなと思って聞いていました。(笑)
想像してほしいところは、Nのセリフをカットするのかな、とか。
これを上演台本に進化させた後の事かと思うのですけど、この戯曲を上演するときの演出家はすごく楽しいと思うし、すごく苦しむだろうなと思いました。(笑)
遠近感もそうだし。モノローグとダイアローグの切り替えだけでも苦労すると思います。
それに加えて、遠近感とか視点のずれとか、シーンも移り変わるし、内面も吐露するし、ボリューミーだと思いました。
『斗起夫』ワークインプログレス座談会⑦(最終回)に続く!最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
2022年12月 ぶいの「ぺ」公演
『斗起夫 ―2031年、東京、都市についての物語―』