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 夏美さんの家の庭には井戸があった。庭のちょうど真ん中にあり、大人たちはいつも綺麗に手入れし大切にしていた。昔は飲み水にも苦労した時代もある。きっとその苦労が井戸の扱いに現れているのだろう。そう勝手に納得していた。汲んだ水はとても冷たく、美味しい。夏美さん自身、井戸のありがたさを感じていた。

ただ徐々に気持ちが変化していく。きっかけは彼女が中学生の時、家の立て直しが決まった頃だ。夏美さんも大変喜んだ。
「新しい部屋が手に入る」そんな期待を持つ。両親や祖父母も快く承諾してくれ、新築の家がとても楽しみになった。
けれどいざ建設準備が始まると、夏美さんに不安が募り始める。
——理由は井戸だった。

庭にある井戸。その場所に家を建てるという。井戸があった場所に家を建ててはいけない。そういった話はよく耳にする。それについて両親に問うと、思いもしない答えが返ってきた。
「井戸を家の一部に組み入れる」
どうやら井戸を囲うように家を建てるらしい。彼女は(そんな家聞いたことがない)と意見をするが梨の礫だ。親達の決めたことに違和感を持っても、受け入れることしか出来ない。
新築の家が出来上がると、一階の間取りの中心に井戸が置かれた。打ちっぱなしのコンクリートの地面と壁。裸電球で窓もない。井戸から漏れ出る水気のせいか、湿気が肌に纏わりつき、居心地の悪さを感じる。

けれども夏美さん以外の家族は居心地良さそうに、この部屋に集まる。そしていつからか食事や睡眠も、井戸を囲んで行い始めたそうだ。ただ夏美さんだけは、この部屋の雰囲気の異常さに気持ちが滅入り、近付かない。
家族はそれとは真逆で井戸から片時も離れず、部屋から出てこなくなった。
家の中に井戸を置いたから家族は狂ったのか、それとも狂わされたのか。夏美さんにはわからない。彼女は高校卒業と同時に家を出た。もう二度とあの家の敷居を跨ぐことはないという。いつか自分もあの井戸に狂わされる。そんな恐怖があるからだ。現在も彼女の家族は、その部屋から片時も離れず暮らしているそうだ

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