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異邦人<デジタル修復版>

イタリアは国を挙げてヴィスコンティの修復保存活動に努めているのか、おかげでここ数年、ヴィスコンティ作品<デジタル修復版>の劇場鑑賞機会に恵まれている。ありがたい。それにしてもこの作品、都内でも上映館が僅か1館とは扱いが低いこと。

デジタル修復版の公式サイトによれば「日本初公開は1968年9月、以降は短縮日本語吹替版がTV放映されたのみ」だそうだ。実は私、このTV放映を観ているんです。たしか大学生の頃。その際の感想を、後に思い出しコメントとして「若い頃観た時はやたら衝撃だった。もう一度観たいが、今観たら評価が下がるだろう」と書き残していました。

今回、たぶん30数年ぶりの再鑑賞。
案の定、評価下がる(笑)。

カミュの原作は元々知っていて、「太陽が眩しかったから」(映画では「太陽のせい」と訳されていた)は高校生の頃の言い訳の定番ネタでした。待ち合わせに遅れたら「太陽が眩しかったから」。忘れ物をしても「太陽が眩しかったから」。早弁しても「太陽が眩しかったから」。太陽は罪な奴。

変な映画なんですよ。繫ぎとか変で、私はそれが「短縮版」のせいだと思っていました。
今回観たら、短縮版のせいじゃなかった(笑)。

私が思うに、ヴィスコンティの映画は「執拗」という表現がしっくりくる。
ところが本作は、ずーっと「淡泊」に進むんです。いや、終盤の裁判部分以降は「執拗」なんですが、前半のドラマ部分は「淡泊」。
おそらく、カミュの原作がそうなんでしょうし、監督の描きたいことの大半が終盤の「論理」に集約されているからなのだと思います。
ただ、映画としてはなんだか歪(いびつ)。不条理的なことを意識した結果なのかもしれませんけど、「ドラマは淡泊」「理屈は執拗」という印象。
あとやっぱり、ヴィスコンティ伯爵に庶民は描けんのですよ。

「無神論者」の持つ意味合いが日本人には到底理解できないことも含め、正直「何だかなあ」感が否めない映画なのですが、今観ると違う意味で不条理感が見えてきます。

言わば「不条理な正義感」。

被告人マルチェロ・マストロヤンニに向けて振りかざす検察官の「正義」が、まるで今時の「ナントカ警察」みたいな理屈に見えてくる。てゆーか、理屈になってない。もはや暴力。
ああ、そうか!これは「暴力の連鎖」なんだ!
第二次大戦の頃にカミュは既に、「正義が暴力になる」ことを描いていたのかもしれません。

殺人と母親の看取り方と何の関係があるんだ?というのが不条理だったのかもしれませんが、今やSNS等で過去の発言をあげつらって個人を非難する暴力が当たり前の様に行われますものね。当時の不条理は今の日常。

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余談
こんなに汗をかく映画って他にない。もしかすると映画史上最も汗をかいている映画かもしれない。「太陽」を観客に感じさせようという意図かもしれません。
『山猫』でも私は「室温を感じさせる舞踏会」と書いているのですが、実はヴィスコンティは「温度」も描写しようとしていたんじゃないか?という新たな発見。

余談2
再鑑賞して評価を下げた一方、年齢を経たことで見えてくる面白さもありました。
この映画の舞台は第二次大戦前のフランス領アルジェ。現在の北アフリカのアルジェリアの首都ですね。
このアルジェリアの独立は『アルジェの戦い』(66年)で描かれます。
そしてアルジェリア独立を不満に思う右翼テロによる大統領暗殺計画が『ジャッカルの日』(73年)。
ちなみに、アルジェリアの隣が、フランスのアルジェ征服に端を発してその領有権争いの末フランス領となる『モロッコ』(30年)。モロッコの都市の一つで第二次大戦パリ陥落中のフランス領『カサブランカ』(42年)。フランスのパリ奪還が『パリは燃えているか』(66年)。いろいろ繋がって見えてきます。いやぁ、映画って本当にいいもんですね。
(2021.03.14 新宿シネマカリテにて再鑑賞 ★★★☆☆)

監督:ルキノ・ヴィスコンティ/1967年/伊=仏
(デジタル修復版日本公開2021年3月5日)

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