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目線を、合わせること。

そろそろ年末に近づいてきているので、少しずつ振り返りを、ということで、とある出来事で感じたことを書き留めておこうと思います。


この1年で経験したことでの気づきで、それなりに大きかったもの、それは「教える」ことに関してです。


私は、協力隊の活動を通して、教育現場で「教える」という経験をしました。

また、IT企業の新人研修のお仕事を通して、講師として「教える」という経験をしました。

対象となる相手は違いますが、「教える」ということに暫く携わることができました。


私は、大学卒業時に教員免許を取得したこともあり、「教える」ということにずっと関心を持っていました。

しかし、卒業時には教員になるという道を選ばず、会社員になる選択をしたため、「教える」という立場を本格的に経験したのは、それから4年以上後の、協力隊の活動でのタイミングでした。


ザンビアでのボランティアとIT企業での講師の中で「教える」という経験をしてわかったこと、それは、「教える」ということが実はあまり好きではないということでした。

私の経験した「教える」では、その「教える」という行動の中でどうしても上下関係を作ってしまうのでは、というところにものすごく強い違和感を感じてしまいました。


もちろん、私の一意見なので違和感がない人もいるかと思います。

私は、特に自分と年齢の近い方々を対象に「教える」ということに携わったからなのか、私の理想は、教える人も学ぶ人も「対等である」ことが一番だということに気づきました。

つまり、お互い同じ目線に立つことが一番なのかな、と思っています。

なので、「教える」という言葉ではなく、「共有」という言葉が何だか私の中ではしっくりくるような気がします。

「共有」なら喜んでしたい、と思ってしまうほどです。


状況や年齢によって、どうしてもパワーバランスや上下関係が出てしまうことは、仕方がないことだと思います。

また、どうしても上下関係がないと「教える」が成り立たない状況はあるかと思います。

ただ、教える人も学ぶ人も、謙虚に、そして尊敬する姿勢があってこそ良い関係が生まれていくのかな、と思います。

知識を持っているから、年上だから、経験が長いから、と言って、決して偉いとは限らないし、上から目線になってはいけないな、私はそうはなりたくないな、と思ってしまいました。



私が「教える」という言葉を使うのは、何だかおこがましい気がしていて。

むしろ「教える」という立場になるからこそ「教わる」ことが多い気がしていて。


自分が一方的に「教える」よりも、相手と双方向に関わって、相手と一緒に考えて学びを「共有」して、自分自身も相手から「教わる」ことでまた自分の蓄積を増やして…と、そうやって知識を循環させていきたいのだと思いました。



大学卒業時、私には「教員になる」という選択肢があったのですが、これらの経験を通して、選択肢からは完全に外れてしまったような気がします。

教育実習以外に、日本の学校現場で教える経験をしたことがないので、実際に経験してみないとわからないことはあるのかもしれませんが、同じところに行きついて悩んでしまいそうだな、と思ってしまい、今は教員になることに憧れなくなってしまいました。

回りまわってやっと出た答えですが、私はこれで良かったのだと思います。

と、少し余談になってしまいました。


「教える」という言葉は便利ですが、行動自体は工夫していきたいものだな、というお話でした。

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