PORT イントロダクション:実験と批評の共有知──新たなアートコミュニティの創発に向けて|渋革まろん

 「PORT:Performance or Theory」が創設されたことの意義は極めて大きいのではないか。少なくとも私はこのトライアルを通じて、荒地として放置された「作品」や「劇場」の《手前》に注意を向ける必要に気付かされたのであり、いわば《手前》の荒地を開墾する「PORT」のチャレンジにある種の共感を覚えたのだった。

 2020年に創設された「PORT」は、ダンス、パフォーマンス、演劇、 写真、建築など異なる手法で身体を扱うアーティストの相互批評を目的とした身体表現の研究会である。ハラサオリがファシリテーターを務めるフェスティバル/トーキョー19(F/T) の研究プログラムとして2019年に実施された「アーティストピット」の参加者で立ち上げられ、2020年度は横浜・馬車道にオープンしたダンスハウス「Dance Base Yokohama」で、そして2021年度は六本木の新しいアートコンプレックスビル「ANB Tokyo」7階のシェアスタジオで行われた。研究会メンバーには2020年「PORT」に引き続き、奥泉理佐子、小林勇輝、たくみちゃん、武本拓也、ハラサオリ、三野新の6名が名を連ねる。それぞれが諸ジャンルの媒体と形式に準拠しつつ、その枠に収まらない活動を展開するいわゆる”若手”のアーティストである。

 2020年「PORT」の際は、大谷能生が講師兼”板書”を担当。1日目に各アーティストによる作品発表(ショーイング)、2日目に各作品に対する相互批評(ディスカッション)、そして3日目には、それらを踏まえて再制作/再構成された各自の作品(30分)が発表され、観客参加のオープンディスカッションまで開かれる高密度な相互批評プログラムが組まれていた。

 2021年度は、そこからちょうどディスカッションの工程を取り出す形で、メンバーそれぞれがオーガナイズするトークイベントを10月10日、11月10日、2022年1月23日、2月19日の4日間の日程で開催。10月は三野新、11月はハラサオリと武本拓也、1月は小林勇輝、2月はたくみちゃんと奥泉理佐子が中心となり、各自の関心に基づいてテーマを定め、ゲストを招き、長時間に及ぶトーク&ディスカッションを繰り広げた。その熱量は今年も陰ることなく、ファシリテーターの立てた問いは、さまざまな観点の質疑とコメントでより解像度の高い複雑な細部を含み込んだものとなり、その問題/課題の輪郭を多角的に浮かび上がらせるのである。なお、各自の設定したテーマは次の通りだ。

10月=三野新:テキスト/デザインの身体性(リンク)
11月=ハラサオリ&武本拓也:身体と上演(リンク)
1月=小林勇輝:人間[-ance](リンク)
2月=たくみちゃん&奥泉理佐子:時間をこねる(リンク)

本レポートは、横道や脱線も含めて多角的に検証されたこれらの問題/課題に若干の整理を加えるとともに、その議論のプロセスを公共に開き、次なる実践と議論につなげる足場の仮組みを目指すものである(各レポートは上記リンクから閲覧可能)。ここではそのイントロとしてPORTという企画の目的やそれを取り巻く文脈についてもう少し掘り下げておこう。

《手前》の創造性を開拓する

 聞くところによると、ハラサオリは2019年アーティストピットのプログラムを始めるにあたって、イヴォンヌ・レイナーが2005年に公開したテキスト「若いアーティストへの手紙」を参加者に配布した。レイナーは1960年代にNYのジャドソン記念教会でポストモダンダンスの先駆的な試みを展開したダンサー・振付家の一人である。
 そこでレイナーは、自身のキャリアをスタートさせたと言う1960年代初頭の前衛的なアートコミュニティ(古き良き時代)を振り返り、キャリアの構築に急き立てられることなく「うまくいかないこと」に取り組む場所の必要を主張する。

私が最大限の情熱を持って強調したいと思うのは、若いアーティストにとって「プロフェッショナリズム」をできるかぎり遅延させることがどれほど重要かということです。キャリアをはじめる前に、実験し、リスクを冒し、遊び、ふざけ、そして失敗さえする機会——そして時間——をみずからに与える方法をどうにか見つけること。*1

ハラサオリがアーティストピットを総括して「誤解や誤読、そしてそれを解く会話のなかで広がっていく創造性に大きな価値があった」、「若手作家が自身と身の回りを落ち着いて見つめ直すためのセカンドスクール的な機会の重要性を体現するには十分な内容だった」*2  と述べるように、アーティストピット/PORTは、「プロフェッショナリズム」を遅延というか一時停止するなかで、さまざまな誤解や誤読のリスクに安心して踏み出すことができる対話と実験の機会を提供している。
しかし、このような実験と相互批評の場をアーティストが自発的に立ち上げなければならいのは──もちろんそれ自体は良いことであるが──アーティストがリスクを取れるような創造性を育む場(セカンドスクール)が少なくとも日本の舞台芸術/上演系芸術/パフォーマンスアート*3  に可視的な形で存在していないからではないだろうか?

 それが舞台芸術/上演系芸術/パフォーマンスアートに対する国や自治体の公的支援に、実験的なアーティストの人材育成という観点が不足しているからなのか、あるいはそもそも舞台芸術/上演系芸術/パフォーマンスアートが社会との緊張関係を形成する創造性*4  を中核とした公共のメディウムだと広く認知されていないといった「劇場」の社会的地位に関わる問題なのか、いま私がその現状と歴史を紐解くことはできない。

 しかし少なくとも結果的に、2022年の今現在において、個々のアーティストのキャリアやステップアップを後押しするショーケース的な取り組み、事業単位の成果主義と結びついた助成制度、アーティストやプロデューサーの相互交流を支援する環境整備は進められても、「実験→批評→共有」のサイクルを回すことでアーティスト相互の《創造性》を育むためのセカンドスクールは、その必要性そのものが広範に意識されているとは言い難い。平たく言えば、PORT的な実験と相互批評を支えるコミュニティやそれを支援するパブリックな枠組みはほとんど見当たらないように思える 。*5

 そうした状況で、PORTが創設され、会場を転々としながら/せざるをえない状況でも持続的な活動を展開していることの意義はまず共有されて良いのではないか。なにより強調しておきたいのは、イヴォンヌ・レイナーの提言とも共振するPORTの取り組みが、観客に“ウケるかどうか”の消費的な価値基準(エンタメ性)やアーティストのセルフブランディング(キャリア)の必要から切り離された《手前》の時間を意識的に確保し、そうすることで創造性を育むための場を独自の自律的な領域として立ち上げていることだ。
 言うなれば、作品の《手前》は作品の事前ではない。《手前》の時間は予定されたプロジェクト(事)の「前」にある時間ではなく、不確定なままの未来に開かれ続ける時間であり、何事かの達成を目指すことなく可能性を可能性として引き受ける未成の時間を指し示している。

 このように何事かの実現を目指さない──意識的にそこに留まる──《手前》という語を立たせることで、創作に必要な二つの時間を明確に区別しておこう。ワークインプログレス(試演会)やリサーチ&レジデンスを主軸にしたアートプロジェクトのように最終的な作品の完成を目指す「事前」の時間とは別に、成果や結果に必ずしも結びつかないセカンドスクール的な対話と実験の時間、すなわち《手前》の時間も豊かなクリエイションを生み出すためには必要不可欠なのではないか。

 確かに、具体的な成果につながる「事前」(プロジェクト)の施策は社会的な意義を与えやすく、アーティストのポテンシャルに寄与する《手前》の試行錯誤は、何になるかわからないだけに、その意義を評価することが難しい。しかし新たな方法やコンセプトを探求し、それをさまざまな政治的・社会的・美学的な価値の指標として共有していくアートコミュニティを地道に持続的に耕していかなければ、結局のところ、新たな創造性の基盤となる創作環境は荒れ果てていくばかりだろう。
実験と批評の共有知が蓄積されることもなく、創造性の土壌がやせ細った状態では、瞬間瞬間のトレンドに流される忘却のリズムに飲み込まれるだけで、社会と拮抗する「身体表現」の歴史を紡いでいくこと、すなわち舞台芸術/上演系芸術/パフォーマンスアートが公共の関心を形成する触媒/メディウムになることもおよそ無理というものではないだろうか。

 PORTの実践はそうした状況に楔を打ち込む。ゆえに私はより多くの人の関心がPORTに向けられることを期待しているのである。


*1: イヴォンヌ・レイナー「若いアーティストへの手紙/letter to a young artist (2005)」 、中井悠訳、http://nocollective.com/transferences/rainer/letter.html
最終アクセス:2022年1月25日。

*2: 「アーティスト・ピット ドキュメント」、フェスティバル/トーキョー実行委員会 
https://www.festival-tokyo.jp/dcms_media/other/200326_AP_book_fix.pdf

*3: PORTは「身体」を軸として演劇、ダンス、美術、建築、映像、写真など諸メディアの領域横断的な対話の場を開くものであり、特定の身体表現だけにPORTの関心が限定されるわけではない。この境域横断性を表現するためにここでは「舞台芸術/上演系芸術/パフォーマンスアート」という表現を使う。

*4: ここでは舞台芸術の価値(おもしろさ)を疑うことなく、市場や業界の支配的な価値基準(常識)に追従する保守的な態度と対比される意味での、常識に対する逸脱・錯誤・不和・撹乱を──上演系芸術であればそうした《他者》の現れに関与する諸々を──生産する方法やコンセプトの探求を指して「創造性」としている。

*5: とはいえ、PORT・アーティストピットはF/TやDaBYの主催プログラム、アーツカウンシル東京のスタートアップ助成のサポートを受けている。だから「何もない」というわけではない。また、PORTと類似する集合的実践、つまりはアーティストが自発的に立ち上げ、互いの試行錯誤を交換することで新たな価値や概念や方法を生み出すコミュニティあるいは創発的プロセスを重視したコレクティブの試みも散見される。たとえば、どうぶつえん(Aokid)、stilllive(小林勇輝)、Responding(武谷大介)、WWFes(山﨑広太)、そして私が足場を置く演劇では、鳥公園、円盤に乗る場、PLAYS and WORKSや「始末をかくプロジェクト」など(岸井大輔)、松井周の標本室、中村大地、野村眞人、福井裕孝が協働する「# 部屋と演劇」、あるいはオフィスマウンテン、スペースノットブランク、範宙遊泳、オル太、こまばアゴラ小劇場で開催された演劇祭「これは演劇ではない」、『非劇』を上演するためのスペースPARAなどなど、それぞれ文脈は異なりつつも、ひとりの個人が主導する創作よりも、複数人の協働から生まれる創発のパラダイムが日本語圏における「身体」表現の前提的な基盤として浸透しつつあると筆者は認識している。


渋革まろん
批評。「チェルフィッチュ(ズ)の系譜学」でゲンロン佐々木敦批評再生塾第三期最優秀賞を受賞。最近の論考に「『パフォーマンス・アート』というあいまいな吹き溜まりに寄せて──『STILLLIVE: CONTACTCONTRADICTION』とコロナ渦における身体の試行/思考」、「〈家族〉を夢見るのは誰?──ハラサオリの〈父〉と男装」(「Dance New Air 2020->21」webサイト)、「灯を消すな──劇場の《手前》で、あるいは?」(『悲劇喜劇』2022年03月号)などがある。

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