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「何となく退屈な」この人生

今仕事の実習で売り場にいるのですが、お客様が来なくて本当に暇な時間が苦痛で苦痛で仕方がないです。皆さんにも、暇の苦痛を味わったことがあることでしょう。人生なんか暇やな~とか、なんかよく分からんけど、最近おもんないわとか。

そんなある日「暇やったな~」と仕事を終えて、本屋さんに立ち寄るとこんな本が!!

國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』。これは思わず手に取ってしまいましたね...。そして即購入。

そんな彼の議論はここでは全部紹介できませんが、自らの生活に引き付けてながら、彼の議論と照らし合わせつつ退屈についてダラダラと考えたいと思います(退屈に関する記事は「退屈について考えるシリーズ」としてこれからも随時投稿予定です)。

そもそも暇と退屈の違いって?

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本書では暇と退屈の違いが明確に定義されています。暇と退屈を同じような意味で使ってきた自分にとってこれは衝撃的でした(上の文章で暇と退屈を特に区別せずに使っていたのにも気付かなかった人が多いのではないでしょうか?!)。

國分氏の定義は次の通りです。

暇とは、何もすることのない、する必要のない時間を指している。(中略)それに対し、退屈とは、何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。

ふむふむ...。結構違いますね...。暇は”何もしなくて良い”時間であるのに対し、退屈は”したいのに出来ない”という感情・気分・状況である。何なら逆のようにも思えますね。

そうなると、仕事における暇は、空いた時間に好きなことしたいのに、仕事中だから、そんなこと出来ない状況となり、退屈に該当しそうです。また、國分氏は、暇は客観的、退屈は主観的と定義しています。

こっちの方がしっくり来ますね。ある人にとって面白いことは他の人にとっては退屈なことなんて往々にしてあります。に対し、何もしなくていい時間である暇は、誰にとっても何もしなくていい時間ですよね(これは別に何もしてはならない時間だということではないですよね)。

退屈から逃れない人類

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突然ですが、皆さんは何かしていても何となく退屈に感じる時が一度ぐらいはあったのではないでしょうか?

國分氏の議論を全て紹介すると、とんでもない文字量になってしまうので、ここでは端折ります(別の記事でまた議論を追いたいと思います)が、退屈さの中で一番人間の根に深く根付いているのは、「何となく退屈だ」という状態だと本書では述べられています。

何となく退屈するのを避けるために好きでもない仕事をする、読書をする、趣味に打ち込む等々。人が一番堪えられないのは、何かをして苦しむことではないからです。一番耐え難いのは、何もしない空虚な時間を過ごすことだからです。

芸術も仕事も趣味も全て何となく退屈することを避けるために生まれたとも言えます。そんな我々人間は、皆等しく何となく退屈からは逃れられない運命にあると言えます。

電車内の何気ない光景

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そんな何となく退屈をしのぐ最も優れたツールはスマホだと思います。

私は極力スマホをすぐいじるのを避けているので、電車内では本を読むかボーっとするかしています。ふと周りに目をやると、ほぼ全員がスマホを見ています。電車に乗るという行為は目的にはなりにくいですよね。目的の場所に行くため、友達と会うための手段。電車に乗るという行為それ自体はさほど重要ではなさそうです。しかも電車内では自分の好きなことをすぐできる環境だとは言えないでしょう。

つまり、國分氏の定義に従えば、電車に乗って、目的地までユラユラと輸送される状態は、退屈な状態です。退屈に堪えられないのが人間としての性。そんな私たちの性質に上手くつけ込んだのが、スマホというわけです。すぐネットにアクセスして自分の好きな動画を見れる、SNSを閲覧できる。まさにスマホは退屈をしのぐ最強のツールです。そりゃ、スマホがここまで普及するわけです。

追記:スマホの現代人への影響に興味のある方は、アンデシュ・ハンセン著『スマホ脳』を読んでみて下さい。


退屈さと直線的な時間感覚

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ダラダラと退屈について書いてきました。そんな退屈という状態の裏にありそうだと私が勝手に思っているのが、直線的な時間感覚です。

直線的な時間な時間ってなに?ベンジャミン・フランクリンの言葉を借りれば、「時は金なり」です。直線的な時間な時間感覚と対になるのは、円環的な時間感覚だ、というのも直線的な時間感覚を理解する助けになるでしょう。次回の「退屈について考えるシリーズ」では、この直線的な時間感覚と退屈との関係、資本主義と退屈との関係について考察出来ればと思います。

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