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退屈について考える②ー時間の無駄=退屈?

退屈について考えるシリーズ第二弾。

人生生きていれば、「この時間無駄やな、退屈やな」

と感じた経験が誰にでもあるはず。

時間の無駄。この感覚はいつの時代にもあったのでしょうか?今回はそんな観点から退屈に迫ってみたいと思います。

(第一弾の投稿です↓)


定住革命と退屈

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この節の議論は、國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』の第2章の議論の簡単な要約です。

私たち人類は、誕生してから長きにわたる移動生活を送ってきました。ところが、1万年ぐらい前から、人類は定住をはじめます。定住革命です。

移動生活においては、頻繁に周りの環境が変わります。そのたびに、人類は環境への適応に注意力を集中させます。

どこで何が取れるのか?どんな危険な動物がいるのか?

人類はその全能力を捧げて周りに適応してきました。ところが、定住革命により人類は決まったところに住むようになります。それまでの移動生活で周りの環境への適応に捧げてきた人類の能力が突然、その能力を発揮する機会を失いました。退屈の誕生です。人はその有り余る能力のせいで、退屈という苦しみを生み出してしまったのです。

現代の退屈さ

國分氏は、退屈の源流を定住革命により説明しています。その議論もとても納得の行くものです。

しかし、現代の退屈さは定住革命により生まれた退屈さとは違う気がしてなりません。現代の退屈さの裏には、時間の無駄という意味での退屈さがありそうだからです。

時は金なり

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ベンジャミン・フランクリンに「時は金なり」という有名な言葉があります。この言葉、実は当たり前ではないと私は思うのです。もっと詳しく説明しましょう。

前のめりの生活

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鷲田清一著『だれのための仕事』の第1章タイトルは、”前のめりの生活”となっています。この生活は、現在というものが別の時間のため(つまり未来)のためにあるという価値観に支えられていると鷲田氏は考えます。

例えば、リカレント教育や副業。これらを行うのは、将来の自分のキャリアアップのためですよね。現在の時間を「学び」に費やす。それこそが充実した時間の使い方で、それが上手く達成出来なかったら、

「時間を無駄にしてしまった...。」

と反省します。現在はまだ見ぬ未来のための投資先なわけです。退屈な時間を過ごせば、「時間の無駄だな...、この時間にあれを学習することが出来たのに...、勿体ないな。」と感じます(こんなことを言う私も感じますが)。

自己投資を否定するわけではないが、立ち止まってみる

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私自身この自己投資=素晴らしいこと、ということを無批判に受け入れていました。しかし、この自己投資は、いまここにあること、という意味での「現在」をないがしろにしているようにも見えます。今多くの現代人は、本当の意味で「現在」を生きているのか不安になってきます...。

この退屈な時間を無駄に感じる感覚は、直線的な時間感覚とは切っても切れない関係にあると思います。

第3回は、この直線的な時間感覚とはなにか?また、円環的な時間感覚とはなにか?について考察し、退屈との関係を探りたいと思います。

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