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飲み会は現代の祭りだった

昔から、(一定の条件を満たした)「飲み会」というものがものすごく、それはもうものすごく苦手だった。

同席する人を選べない。
プライベートで特に親しくない人、知らない人、苦手な人がいる。
人数が多い(=私にとっては、5人以上)。
うるさい場所。
悪い酔っ払い方をする人がいる。

この辺りの条件が大体揃ってしまう飲み会は本当に苦手だ。そして、いわゆる「仕事の飲み会」は大体、いくつかの(あるいは、全ての)条件に当てはまる。

うるさい、明るすぎる、人が多い、そういう場所が苦手だというのも単純にあるだろう。

でもずっと、どうしてこんなにも苦手なのか、そういう場が疲れるのか、時間が経つと1秒でも早く帰りたくなってしまうのかを不思議に思っていた。
でもこの間、ふと、気がついたことがある。

これは「祭り」であり「儀式」なんだと。
コミュニティを維持するためにやっている儀式で、
中身(何を食べるか、飲むか、どんな話をするか)に深い意味はないのだと。

みんなで同じ場所に集まって飲み食いすることが大事。そこで深い話なんてできないしする理由もない。

むしろ、「みんなが交流」することが大事だから、何かに踏み込むような話、意味のある話なんてしない方が良いのかもしれない。

私はそういう、表面的な会話、意味のない会話、世間話みたいなものが猛烈に苦手なようだ。

普段から、基本的には2人(か多くても4人が限界)でしか人に会わないのも、人が多いところが苦手なのもそういうことなのかもしれない。

会話を、言葉を、すごく大事に思ってるんだろうと思う。ちゃんとお互いの言葉に耳を傾けて、受け止めて、そして言葉を返したい。

だから私は会話の途中で、相手の言ったことをゆっくりじっくり考えていて言葉が止まることが時々ある。自分が言いたいことを頭で整理していて少し沈黙することも。1対1なら、その時間は相手は待っていてくれるけど、大人数だとそうはいかない。

というか、大人数の場で、別に相手は意味のある回答を求めていないから、考える必要もない。それを頭でわかっていても、私は「考えないで喋る」ことができない。本当にできない。

ちゃんと考えて情報を処理して、言いたいことを、
一番自分が良いと思う言葉を選んで相手に伝える、それが私にとっての「会話」だ。だから、人の言葉選びにいちいち傷つくこともよくある。

でも、飲み会を祭りとしたら、そこでの会話は、お祭りで御神輿を担いで、「わーっしょい」と掛け声をかけているのとあまり変わらない。

何となくみんなが参加できることが大事。でもどうしてもそこで、いちいち意味を考えてしまったり、みんなと同じリズムに乗るのが嫌だったりする。
疲れて当たり前だろう、と今は思う。

深く考えずに参加できる人の方が、楽しいのかな。もしかしたら、みんな、色々思いながらも演じて神輿を担いでいるだけなのかな。実はどちらの人もいそうだけれど。

なら行かなければ良いだろう。と、自分で思う。それでもなぜか、行こうとしてしまう。心のどこかでは、自分も仲間に入りたいとか、コミュニティに所属しているような気持ちを味わいたいとか、そういう気持ちがあるんだろうか。

それとも、「行ったら行ったで何か面白い話が聞けるかも」という気持ちがあるからだろうか。何となく義務感のようなものがあるからだろうか。

自分でもよく分からないけど、それでも、これからも、きっと「飲み会」というものに参加するのは、ゼロにはならないのだろうな。

みなさんは「飲み会」、好きですか?

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