沈む空に

 夢は終わった。もう長いこと、ずっと見ている夢だった。揺られ漂って、少女は青い水の中で息を吐いた。真正面に向かって泡が膨らんでいく。なら、今は仰向けになっているのだろう。ずっと遠くに輪郭のない太陽が見える。水の中にその色は蒼あおい。しゃがれた波の中に少女の吐いた息が切り揉まれて太陽を崩していく。少女はゆっくりと瞬いた。衣服を絡めた手足がどこまでも沈んでいく。髪が広がっては纏まといついていく。太陽に泡が絡む。どこまでも沈んでいく。いつまでも落ちていく。そのすべてに、音はなかった。

 無音の騒がしさが少女の耳を包んだ。耳鳴りに似ているが、もっと小さい音。気にしないようにすればするほど、鼓膜の先を聾ろうしていく。こだました銀を弾く音が形を成して少女の名を呼んだ。魚の声に似ていた。少女の周りには、魚なんて一匹もいなかったのだけど。その声が、太陽みたいに輪郭を失くしていた少女の記憶を縁取った。

「海がいいよ。一緒に行こう。ね、いいだろ」

ああ、結城ゆうきの声だ。少女は記憶に思いを馳せた。結城が彼女の名を呼ぶときはいつも、頼みごとがある時ばかりだった。

「透子とうこぉ、透子さん? いいじゃん、砂浜、潮干狩り、とか。この時期に泳ぐわけでもなし。楽しいだろ、な?」

透子はプイとそっぽを向いたまま、バスの車窓から見える景色に目を流していた。バスは山を登りながらガタガタと窓を鳴らす。泳げない透子を気遣ってか、あまり海に遊びに行こうと誘わないのは昔から変わらなかったが、結城は暇さえあれば水遊びをしているような奴だった。夏に向けて日差しの強まるこの時期になると、決まってそわそわしだす。そうして滅多に誘わない海へ、一緒に行こうと言い出す。透子は毎年断る。今年だって断った。ついさっきのことだ。それなのにまた懲りずに誘う。これも毎年のことだった。断り切れずに砂浜の端に座り込むのも毎年のこと。だが、今年は違った。

「い、や、だ。何度も言ってるけど、そのあたりの日はずぅっと用事があるから」

「だから、その用事って何さ。いくら聞いても答えてくれないじゃん。俺は魚を飼いたいの。ちっちゃいやつ」

結城はもはや拗ね始めている。透子はちょっと笑いを堪えながら首を振る。

「何でもかんでも話す義理はないね。それより知ってるでしょ。海は好きじゃないの。川にだったら付き合うから今回は残念でした、諦めてよ」

透子が言うと、結城は渋い顔をする。透子を言いくるめたい時の顔だった。こういう時は大抵、何が何でも誘いに乗らせようとして来る。断る理由もないとそのまま砂浜で読書コースだ。だが、今年は違うのだ。断る理由はある。当日までは秘密にすると決めてある。透子は結城の渋った鼻先に指を突きつけた。

「行かないからね。ライブチケットもらっても、おごりで遊園地でも、ケーキバイキングでも、絶対に海には行かないから」

今までの結城の手口を引き合いに出すと、結城はウッと詰まって口をもぐもぐさせた。いつも結城は島の外から透子の興味を引くものを持ってきては海へと誘う。透子は窓の方に向き直って日差しにひらひらと光る海を見下ろした。切り立った崖に坂が伸びている。その隙間を縫ってバスが登っていく。

小さな島に小さな頃から二人だけの友達だった。六つ上の近所のお兄さんはもう島を出ている。あとはちびっこしかいない。島に一つだけある高校は古びた分校で、やはり全校生徒は二人だけ。それも、透子たちが卒業したら廃校になるのだと聞いた。最後の夏まであと一年と少し。透子が海を断れるのも、あと一年と少しだけだった。

(いや、もうちょっと短いな)

ひとり苦笑を漏らす。この間、家族で島の外に行った理由を思い出した。結城の親にも透子の親にも口止めはしてある。透子が言うまでは黙っていてくれるだろう。

 結城はバスの運転席に向かって声を投げた。

「吉野よしのさんも何とか言ってくださいよ。何で今年ばっかりこうも強情なんですか、ウチの透子は」

運転手の吉野は咳をするような声で笑った。ギアを切り替え、ハンドルを持ち替えて右手で帽子を浮かす。

「毎年断ってただろうがよ。透子ちゃん、嫌々渋々仕方なぁく承諾してただけだろうぜ。ナァ?」

「そうそう。ほら、吉野さんも分かってるんだよ」

ふふん、と鼻を鳴らす。結城はさらに渋い顔をしてバスの背に寄りかかった。

「みんなしてそんなこと。お前が嫌いなこと我慢するのと、俺が好きなこと我慢するのと、何が違うってんだよ」

「いじけるな、いじけるな」

吉野と透子が二人して笑う。あいにくだが、結城の海好きでは透子の海嫌いには太刀打ちできない。幼少期に溺れたトラウマはそんなに軽いものではないのだ。

透子は後ろで括っていた髪をほどいて指で梳いた。かすかに潮の香りがする。山の麓にある高校に吹き込む潮風がいつもこの香を運んでくる。これを嗅ぐと、結城の遊ぶ砂浜のことを思い出す。海は嫌いだが、この匂いは嫌いではない。島を出たら郷愁の香りとなるのだろう。

少女は沈んでいく。上から押されているのか、下から引かれているのか。ふらふらと漂っては、すうと気泡が頬を撫でる。瞬きをすればまつ毛に風圧がある。風圧を和らげる流れは温かい。遠く遠くにぼんやりと揺れる蒼い太陽がいくつも泡に乱されている。思い出が、記憶が、そのたびに少女の目の前に映る気がする。いくつも、いくつだって全てが思い出される。沈みながらに見えるのは、溶けた太陽とそればかりだった。波がひび割れて少女の顔に影を落とす。その影に校庭の楠の木陰が落ちた。混ざり合って、いつしか緑の影が少女の瞼を埋める。また声が。耳鳴りを引っかく声がする。

「なあ、俺になんか言うことないか」

低い声だった。楠の下で、あれは放課後だっただろうか。それとも朝早かったのか、なんとなく薄ぼんやりと湿った木陰だった覚えがある。

「あるある。昨日みかんゼリー食べてごめんね」

「え、待って。それすっごい楽しみにしてたのに」

ぎょっと振り返った結城の顔を押しのけて漫画を読みながら、透子が小さく鼻を鳴らして笑う。

「あんたが食べたがってたから買ったんだけどね。ま、買ったのはウチだから文句を言われる筋合いはないよ」

くすくすと笑う。結城はしばらく絶望の染み込んだ顔で透子を見ていたが、やがて息を吐いて前を向き直した。風が木の葉を切る音がした。重なった音にぎくりとする。胸の遠いところを紙で切られたような感じがした。痛みよりも先に身構えてしまうような。

「とぼけるならあえて聞くけど。お前、いつまでこの島にいるんだ?」

喉に板を張ったような声だった。透子はとっさに、自分の喉仏に触れてみた。何ともなかった。いつも通りだった。

「いつまでって、卒業まで? 就職も進学も、この島じゃ望めないでしょ」

「ほんとに?」

喧嘩になるな、と透子は木陰の縁に目を凝らした。結城はきっと、透子がギリギリまで黙っておきたかったことを知っている。親たちの誰かが口を滑らせたか、黙ったままでいる透子を見かねて告げ口したか、あるいは自分で気付いたのか。いずれにしても、確信のある口ぶりだ。透子はこのまま隠しておくつもりだ。島を出る当日までは、と決めた覚悟に揺らぎはない。結城はそういう類の覚悟が何より嫌いだったはずだ。

(島を出る前に喧嘩したくなかったなあ)

内心苦笑しながら、透子は漫画本を閉じた。木の幹に寄りかかって結城の顔を見上げる。今日は日差しが強い。逆光になった幼馴染の顔も、地面の反射で明るかった。その顔が何かに耐えるように強張った無表情を湛えている。ああ、もう春も終わるんだなぁとそんなことを思った。風に緑の匂いがしていた。息苦しいほど潮と緑の匂いが強かった。

「まだしみじみするには早くない? 来年の話でしょ」

透子が言うと、結城は勢い込んで何かを言いかけた。それから首を振って、顔を覆うようにこめかみを押さえた。その手にも頬にも、緑の影が落ちている。しばらく黙り込んで、結城は呻くような声を出した。

「俺には言えないっていうのも、分からなくはないけど……」

声にやるせなさが滲んだ。

「ばれた後まで隠さなくてもいいじゃん。俺が悩むから黙ってたことくらい、予想つくんだから」

そこまでばれてるのか。透子は目を逸らす。ばれていてもおかしくはない。それだけの長い間を、一緒に過ごしてきた。透子は地面に向かって笑いかけた。

「島出る前からホームシック? どこまでも女々しい奴」

鼻で笑うようにすると、

「透子」

駄々をこねるような呼び方だった。何さ、と笑いながら立ち上がったとき肩口を冷たいものが掠った。次は肘に、背に。あっという間に雨が降り出した。

「うっわ、今まで晴れてたのに」

「あーもう、なんか今日は嫌なことばっかだ。帰ろう」

結城が透子の手首をつかむ。その腕を振り払いたくなったのは、きっと雨に濡れた手首に結城の手が冷たかったせいだろう。

 歩き出した地面の感触を、彼女はもはや覚えていない。こんなにも記憶が鮮やかなのに、その足裏を震わせた砂利の粒を思い出すことができない。制服が纏いついている。その足は青く沈んで、今やどこを掻いているのかすら分からない。波が彼女を揺する。耳鳴りは止まない。水の中で少女は笑った。こうして漂っていることが幸せだった。大事な写真を目の前に並べて、一枚も失くさずに眺め続けることが幸せだった。少女は依然沈む。ぼんやりと開いた目に、曖昧な太陽が優しい。水面から遠ざかっても太陽は遠ざからなかった。こんな風に月と太陽とが似ているのだと思った。

耳鳴りは続く。雨の音がする。空の匂いがした。バスが鳴いていた。透子はひとり、山の集落の中にあるバス停でバスを待っていた。潮風に乗って、麓から登ってくるバスの音が聞こえる。両親は一昨日島を出た。この島に仕事は少ない。自営業だけではやっていけなかった。父親の働き口も、新しい住まいもすでに見つけてある。あとは透子だけだった。引っ越しのために先に島を出た両親からも、もういつでも住めるという電話が入った。もう、何もかもがお別れだった。昨日、島のみんながお別れ会を開いてくれた。結城はそこに顔を出していない。木陰の一件から口もきいていなかった。昨日まで降り続いた雨の発端、あの日が結城と透子の中のお別れ会だったのだろう。生まれた時から当たり前のように一緒に過ごしてきたのだから、別れる時も当たり前のように別れるのがいい。自然な形だと、透子はひとり頷いていた。大仰な別れなんて似合わないというのは本音だった。バスが登ってくる。坂道のカーブから、吉野が運転するポンコツバスの鼻先が見えた。

(そうだ、吉野さんとももうお別れだなあ)

感傷に似たため息を吐ついて、透子はバスの頭に手を振った。吉野は右手で帽子を浮かせ、透子に手を振り返す。癖なのか決まりなのか、見慣れたこの仕草も感傷に足る風景だった。バスが目の前に止まり、空気を噴き出す音とともにドアが開く。

「おはよう」

「おはようございます、吉野さん」

いつもの挨拶を交わし、いつもの席へ。いつもならその隣にいるはずの結城は、今頃家にいるだろう。喧嘩中の今なら、布団をかぶって枕を抱え込んでいるはずだ。トランクの持ち手を縮め、足元に置く。吉野さんは運転席からミラー越しに透子に声をかけた。

「透子ちゃんを乗せるのも、これが最後なんだなぁ。小学校の時から乗せてるのに、あれはついこの間のことのみたいでなあ」

吉野の言葉に笑って、透子はじわりと喉を動かした。

「やめてくださいよ、私だって吉野さんに会えなくなるの寂しいんですから」

お互いにしおしおと笑い合う。空気を吐き出す音と重なって、バスのドアも閉まった。透子は何度も振り返った自分の家をもう一度見た。バスの中から見るその家はどこか小さく古ぼけて、隣の結城の家が目に入らなければ何の思いも湧いては来なかっただろう。透子は誰もいない窓に向かって小さく手を振ってみた。行き場のない思い出が窓にぶつかって消えていく。あの中に残してきた仕掛けは、いつになったらこの喧嘩を思い出に変えてくれるのだろうか。結城のことだ、きっと長くかかる。何もなかったらおそらく一週間と言ったところか。一週間の間は仕掛けを保てるようにしてある。あの仕掛けは、結城と透子との仲直りも兼ねているのだ。

 バスの窓が鳴る。揺れている。透子は山を下っていくバスの、海が見える方ににじり寄った。窓を開けると潮の匂いのする風が吹き込んできた。海はこれまでの雨を吸い込んで陰鬱いんうつな色をしている。そこに反射する太陽の色は柔らかく、透子の目に映る景色は調和のとれた一枚の絵のようだった。透子は苦笑した。見慣れたこの景色を懐かしく感じる。もはやここは住処すみかではなく故郷ふるさとなのだと、あっさり認めてしまえた自分が何だか可笑しかった。うねるカーブの先に水たまりがある。タイヤで跳ねた水が日差しに光った。急に眩しくなる。バスは鳴る。窓ガラスが震えてガタガタと音を立て、ふいに地面が近づいてきて。

「――え?」

急に首の後ろを掴まれたような気がした。頬に何かが傷をつけた。腰を何かが殴った。背中を巻き込んで陽射しが陰った。肩口すれすれをトランクが追い越して行った。トランクの行く先は光る海で、開けた視界にキラキラと光るガラスの破片が眩しい。ひしゃげたバスの影に土砂が絡んで太陽を崩していく。透子はゆっくりと瞬いた。衣服を絡めた手足がどこまでも遠くを掴んでいる気がした。髪が広がっては纏いついていく。太陽にガラスの欠片が絡む。もうあんなに海が近い。ああ、耳鳴りが。魚の声に似た耳鳴りが、土砂に切り揉まれていく。どこまでも沈んでいく。いつまでも落ちていく。そのすべてに、音はなかった。

 夢を見ている。もう長いこと、ずっと見ている夢だった。揺られ漂って、少女は青い水の中で息を吐いた。真正面に向かって泡が膨らんでいく。水面が遠ざかる。沈んでいくのではないとしたら、彼女は背中から引かれているのだ。泡は下へと落ちていく。太陽はいつまでもそこにある。魚はいない。時折白い靄もやに包まれる。思えば初めから、ここは水の中ではなかった。

透子が仲直りのために用意した仕掛けを、彼女はもはや覚えていない。少女はゆっくりと瞬いた。もう何度も終わった夢を、もう一度初めから見るために。止まない耳鳴りに写真を貼って、もう一度笑うために。輪郭を失くした少女の爪先を、赤い金魚がすり抜けた。金魚は遊ぶように少女の正面によぎって、閉じた瞼の先を前へと泳ぎ出した。少女は今も揺られている。

遠く遠くに水面が凪ないでいる。日差しを受けてひらひらと光る波の際に、くすんだ色の砂浜がある。そこに一人、蹲る少年がいた。波から背を向けてじっと蹲る姿は、まるで波を寄せ付けまいとするかのように小さい。その足元に、みかんゼリーの空きカップがあった。水を張ったその小さな揺らめきに、海の色が溶けている。終わった夢の、その先のきらめきを教えるために。耳鳴りを止めて、もう一度笑う顔を見るために。少年の爪先に、金魚は今も泳いでいる。


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