昇り階段の青

 昇る階段の先に空がある。彼女は階段を昇るのが好きだった。拍を取る爪先。イヤホンのコードに映る空色。自分から顔いっぱいに風を受ける。上から吹き降ろす風に足を差し出して次の一歩を踏む。頭こうべを上げて首を伸ばす。昇り階段では、彼女は下を向かない。踊り場に向けて真っ直ぐ眼差しを向けていられる。手すりを掴んで踊り場を折り返し、次の十段へ。灰と白のミルフィーユの先にはまた空が彼女を見下ろす。空は青い。雲を刷いて、ガラス板に押し付けたようだ。立体的なのか平面的なのか判然としない。彼女だったらきっと、これを絵に描いたような空というだろう。青いキャンバスに白の油彩絵の具を盛り立てたら、こんな雲よりは立体的に描けるかもしれない。

 そのうちに彼女は、下り階段の良さに目覚めた。膝に響く確かなテンポと、無意識に次の一歩を踏む爪先。首をすり抜ける風に、背負った空の青さが染み出していた。肘を上げて肩を縮めて、ミルフィーユにフォークを突くように駆け下る。下り階段では下を見てもいい。むしろ、見ないと足を踏み外してしまう。一階まで降りてすぐに身を翻せば、そこはまた昇り階段に早変わりだ。さっき喉元を撫でた風の青さを振り返る。下り階段は昇りとセットでなければならない。下りたら昇る。昇ったら昇りっぱなしでもいいのだが、どうせ下りなければならないのだったら好きになってしまえ。みんな楽しくなってしまえ。彼女は鼻歌交じりに下り階段を踏んでいく。地面まではあと、十段と三つ。

 そんなわけで、彼女が平坦な道も好むようになるのにそう時間はかからなかった。スキップほどに弾んだ足取りがイヤホンの向こうの拍を踏む。背中を押す風もあれば、爪先を絡める向かい風もある。顔に吹き付ける風にも耳を吹き抜ける風にも、全てに青が滲んでいた。振り返っても前を向いても、その先には空の青がある。アスファルトは雲を吸って道路標示は空を吸う。道幅いっぱいに行ったり来たり、前に向かっても後ろに進んでも、それが彼女の選んだ方向であれば何も問題はなかった。階段より開けた青を引き連れて次の曲がり角を曲がる。振り返れば遠く向こうにガラス板に押し付けた雲がうごめいている。上空は風が強いのだろう。彼女は風に向かって次の一歩を踏み出した。

 彼女はいずれ歩みを止めた景色にも心躍らせるだろう。布団の中で夢見る空を好み、座って眺める雲に透明な板を見る。全てを好きになった彼女は、最終的には昇り階段に帰ってくるに違いない。回り回ったリズムには空の青を、爪先には拍を、イヤホンには雲の色を乗せて、次の一歩を踏むのだ。伸ばした首と翳した眼差しには光を映す。彼女にとってのすべての道は昇り階段に通じる。それが彼女の足を運ぶリズムになったのだから。

 昇って下りて進んで止まって、彼女がその先の青を知るのはまだもう少し先の話。空を愛でる彼女はまだ生きている。その先は、進んでみてからのお楽しみ。さあ、次の一歩を。


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