2020年の8月9日の記録
8月9日はいつも晴れている。
小学2年生の夏、教室で、私たちは全員立たされ、8月9日が何の日か分かる人は座るよう言われた。その時点で、クラスの半分くらいが座った。なんでみんなが座れるのか、全く理解できなかった。先生からのヒントや、周りの人との雑談、その中で立っている人は次第に減っていき、残りの2,3人になったとき、先生は私の名前を呼び、私が分からないのは仕方がない、座っていいよと言った。その後、みんなでアニメを見た。
このクラスのみんなが知っていること、少なくとも、1年前にはみんなが知ったこと。みんなが知っているそれを私が知らないということを、初めて知った。私はここの人間じゃないんだな、と思った。何かを知らないということが、とても恐ろしかった。
小学1年生の8月9日は夏休みだったけれど、小学2年生からの8月9日は登校日になった。晴れた空が恐ろしかった。8月9日の飛行機は私を撃つのだと思っていた。家の影に隠れながら、ひたすら走って家に帰った。8月9日は一人で帰るようにしていた。友達と一緒になる年もあったけれどまさか怖いなんて言えないし、走って帰りたい気持ちを抑え込んで一生懸命に笑っていた。セミの鳴き声が耳を縛り付けていた。
飛行機が、晴れた空が怖いなんて、結局は被害者意識であることを表している。
原子爆弾が落とされたらどうするか。地下のシェルターに逃げるという誰かの意見に、自分だけでいいのか、と先生が言った。家族も一緒に、友達も一緒に、とどんどん増えていく。それでも先生は、あの人は、この人は、と言う。自分も周りの人も、そして知らない人も、助けない人がいてはいけないという空気になっていった。私はおかしいと思った。地球上のみんなが地下に入って、いったい何から逃げようとしているのか。爆弾を落とす人しか地球上にいない。その人だって、助かりたいのではないか。全員で地下に潜るなんて、馬鹿じゃないの。それなら戦争なんて、しなければいいのに。こんな議論、馬鹿げている。なんて言えずに、私はひたすら下を向いていた。
黙祷の1分間、私が目をつぶっている間、世界がどうなっているのか怖くて仕方がなかった。振り払うように戦争で亡くなった人を思うことにした。地面から何かが、生命体のような何かが沸き上がってきて襲われるような気がした。倒れそうになり、倒れないように、倒れないようにとそれだけを考えていた。祈るって、どういうことなのか。黙祷の1分間の過ごし方が、私は未だに分からない。
長崎で育って長崎を出た人は、サイレンが鳴らない8月9日に違和感を持つ。11時2分に立ち止まることなく、日常として通り過ぎる人々に悲しみを感じる。私は、それを当然だと思う。長崎の人には怒られるだろうか。哀れな目で見られるかもしれない。それでも私は、当然だと思う。関東で生まれた私は長崎を知らなかった。そして長崎で育った私は、沖縄戦を知らなかった。
長崎を知らない関東の人たちを許せなかったのは、沖縄戦を知るまでだった。長崎にいるから長崎について思っている、それだけ。長崎の祈りを押しつけているだけだ。長崎を思うほどに沖縄を思っていない私たちが、長崎を思っていない人たちをどうして責めることができるのだ。長崎を思っていない人たちが住む街のことを、私たちは1秒でも思ったことがあるのか。
長崎を知らない人たちがいる。だからこそ、長崎にいる人が発信する。知らない人がいることを嘆くのは、あまりに無責任だ。自分が日常としているその瞬間も、きっとどこかの、私が知らない時間だと思う。
2020年の8月9日。私の好きなアーティストの配信ライブがあった。8月9日、14時から。長崎の8月9日11時2分を過ごした後にライブを楽しむことに、なんとなく罪悪感がある。そんなことを言いながらも、結局私はチケットを購入した。8月9日にライブを楽しむことは、罪悪感を持たなければならないことなのか、私には分からない。8月10日になれば、私たちは日常に戻るのだから。流れる毎日の中で、平和を思っていない時間の方が圧倒的に長い。そのことは、認めなければならないように思う。私はきっと、8月9日にライブを楽しむことに罪悪感を感じたのではない。8月9日にライブを楽しむことに罪悪感を感じる人でありたかっただけなのだ。その証拠に私はライブを楽しむことができてしまった。
今年は平和祈念式典に一般の人が参加することができなかった。夕方に、平和公園に行こうと思っていた。夕方、雨が降ってきて、やめてしまった。
私の2020年の8月9日には、ライブを楽しんだ、平和公園に行かなかった、このことも記録しておかなければならないような気がした。
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