思い出はどこへ行くのか?
最近ヨルシカが大好きなので、「ただ君に晴れ」と「夜行」について考える。(あくまで勝手な解釈になり、ヨルシカのお二方が意図した解釈ではない可能性をお許しください。)
ヨルシカの曲には、大人になる、夏が終わる、などの表現に重ねられた意味やイメージがあって、それが言葉そのものの意味を増幅させて反響しているから、自分で思う以上に心に響いて離れないことがよくある。知らず知らずのうちに心がヨルシカを聴きたがっている。
写真なんて紙切れだ 思い出なんてただのごみだ それがわからないから 口をつぐんだまま ーヨルシカ「ただ君に晴れ」
歌詞にこういう部分があって、わからない、と否定しているものの、思い出なんてただのごみ、と言うには覚悟がいる。あとで否定する言葉がなくちゃ行き場がない、なんだか喧嘩して投げやりになって、どうせそうなんでしょ、と相手の否定を望んで放つ言葉のようだ。写真は実体のあるものだから、いらないと決めて燃えるごみに出せばそれは廃棄物だ。しかし思い出の捨て方とは?これは難しいようで簡単で、意識無意識に関係ない、忘却。新しい日々を乗りこなすうちに、思い出は捨てられていく運命にある。
君は忘れてしまうだろうけど思い出だけが本当なんだ ーヨルシカ「夜行」
夜行の歌詞には、(思い出なんてただのごみだ、なんて)わからない側の訴えのような、切実な思い出の解釈がある。捨ててしまってもいいごみどころか、思い出こそが本当だという。思い出が真で、それ以外の今や未来が偽になってしまうのは、君と僕は思い出の中にしかいない、未来には君の姿は、君と作るはずの思い出はないから。だから君との思い出だけ信じていたいと。
君は忘れてしまうだろうけど。
君が思い出をごみに出したって僕はとっておくよ。だけど君がある朝出したごみの中から思い出を漁って、君に届けることはしない、できない。君にとってそれは、もうごみなのだから。
人との付き合いはそういうことの繰り返しで、切ないなって思いながら何度も春を迎えては歳をとっていくのだと思う。そして思い出を丁寧に眺めて、ただ君に晴れぬ空などないことを願い、人生の夜へと向かっていく。
思い出は引き連れたままでいいと思う。
私の言葉では言い尽くせないヨルシカをぜひ味わってください。文中で取り上げたフレーズの続きの言葉も、それはそれは心に染み込む、いい唄です。
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