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フーリガンの他害は運営の不作為の作為 ー善意の大衆,悪意のメディア,演出された演者ー

ある人が自死する.そこには,直接的,間接的動機が,複雑にからみあっている.しかし,因果関係がある程度,推理できるとすれば,そこに責任の所在を,ある程度,確認できる.

SNS上で,ある人に対して,心理的苦痛を与える集団がいたとして,その集団は,確かに悪である.しかし,その集団を特定できない,さらにその集団の構成員が流動的であれば,彼らを被告にすることは難しい.では,そのような集団の不法行為の結果,もたらされた損害は,だれが責任を負うのか.ある人が,その職務故に攻撃されているならば,その人を保護する責任は,使用者にある.(労働契約法第5条) それは,身体のみならず,精神においても保護する責任があるはずである.いやしくも,集団によるSNS上での誹謗中傷をも利益の追求のために放置したならば,それは「不作為の作為」である.そして,それが,演劇ではなく,歪曲された演出によるのならば,あるいは,演劇に接近したドキュメンタリーであったとしても,労働者の望まない,意図された扇動であれば,制作者に対する非難は充分に値する.

サッカーのフーリガンが観客を殴ったとして,チーム全体や運営がその責任を負うことがある.フーリガンとチームが直接的なつながりをもたなくても,その責任を追及されることがあるのである.一方で,テレビ番組の類いは,フーリガンの暴走を演出によって,責任を隠蔽することが多々ある.あたかも被害者かのように,そして加害者を視聴者に押しつけんとばかりに.しかし,実際には,過失ですらなく,演者を同意なく悪者に仕立て上げ,フーリガンの暴走をあおろうとするような,故意が存在している場合がある.仮に悪意ならば,「教唆」である.教唆とは,自分自身,手を汚すことなく,不当に目的を達成しようという,「犯罪」である.

ある夜,動物園に,大衆が集まった.とある番組がそれを扇動したのである.巧妙なのは,群衆をして,実行せしめたという,悪質性である.流動的な群衆は,その責任を問えない.しかし,扇動した制作者は群衆にその罪を負わせるであろう.近隣住民は騒音被害を受けるにとどまったが,個人の人格を否定するかのような演出でもって,それを反規範的ではないと群衆に思わせた点において,その罪は,法で問えずとも,道徳的に問われるべきである.このような,演出を繰り返す限り,フーリガンは,「善意」のうちに,人を攻撃するであろう.人を楽しませるはずの番組が,人を間接的に,死に至らしめる正当性などどこにもない.




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